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[寄稿]もうニュースを見るのはやめましょう

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ハンギョレ新聞

「慰安婦運動を語る」専門家リレー寄稿(4) 藤井たけし|東京外国語大学教員  政治とメディアが作った「韓日戦フレーム」から 自由ではいられない挺対協・正義連 そのジレンマ的条件を理解することこそ 慰安婦問題連帯の前提条件だ

 イ・ヨンスさんの5月25日の2回目の記者会見での発言を何度も読み返した。驚いた。内容ではなく、思った以上にひどく「しどろもどろ」だったからだ。滑らかに流れるべき言葉は何度も途絶え、飛躍し、また引き返しを繰り返す。これはいったい何なのか。  事前に準備された記者会見文のみを見てその内容を評価する前に、まずこの「しどろもどろ」の前で立ち止まってみよう。伝えようとする内容がすでに用意されていても、実際に言葉にするというのは、それとは質的に異なる行為だ。ある言葉を口にするたびに思い出される記憶は、滑らかな「意思伝達」を妨害し、空白という形で生の断片を露わにする。  問題は、我々がこの空白を、イ・ヨンスさんの発言に挟まれた数多くの行間を、どれだけ読み取れるかにある。そこに込められた30年にわたる運動について、その現場について、我々は何を知っているだろうか? まずその距離を自覚することから始めなければならないようだ。「私」はどの位置からこの問題を眺めているのだろうか。  今起こっているこの事態を考えるために、まず考えなければならないことは、おそらく「政治のスペクタクル化」だろう。「MB(李明博政権)」時代に本格的に社会の新自由主義化が進められることで起こったことは、メディア掌握、コメント工作などを通じて、世論と現場を徹底的に分断することだった。そしてこの渦中に登場した一種の対抗メディアである「ナコムス」(「ナヌン コムスダ」(私はみみっちい奴だ)というタイトルの政治批評ポッドキャスト番組)も、陰謀論を基調とすることで政治の場を私たちの手の届かない遠くへと追いやってしまい、これがフェイクニュースが幅を利かせる土台となった。今はコメントを書き込んで敵味方を分けることが政治となり、寸鉄殺人が人気を集める技術として浮上している。時間をかけて具体的な悩みを分かち合う、それこそ政治の基本となる場は見えなくなってしまった。  この脈絡の中で、ろうそく集会が持つ二つの側面についても、もう一度考えてみる必要があるだろう。つまり、直接民主主義を考え実践する場としての広場と、200万人が集まったと誇るスペクタクルとしての広場だ。その後、若いフェミニストらの活動をはじめ、新しい現場を作り出す直接民主主義的な試みは続いたが、メディアで大きく取り上げられたのは、いわゆる「チョ・グク事態」時に起きたスペクタクル競争であり、その枠の中での政治は人気投票に過ぎなかった。ろうそくの「成果」たる文在寅(ムン・ジェイン)政権も「演出」に没頭し続け、その結果は今、この局面でタク・ヒョンミン(公演企画者)を再び迎えるというかたちで現れている。我々が政治の消費者であり続ける限り、このような流れを変えることはできない。  いわゆる「慰安婦問題」も、このような流れの中で見なければならない。基本的に曹渓宗という巨大宗教団体の不正問題である「ナヌムの家問題」と挺対協・正義連を一緒くたにして非難するのを見ると、我々がこの運動の現場からいかに遠くにいるのかを実感せざるをえない。これまで民主党系列が好んで使っていた「韓日戦フレーム」、3・1節や8・15で、あるいは韓日の確執が深まった時にのみ水曜集会を訪れ報道することで、「慰安婦問題」を戦時性暴力の問題ではなく、「韓日間の外交懸案」または「日帝の蛮行の証拠」程度に見るように仕向けてきたメディアの報道姿勢などがこの状況を作っているのだ。多くの人々はこの状況の中で「慰安婦問題の解決に向けた運動」に接する。水曜デモの現場でいくら女性の人権を強調し、韓日の市民社会の連帯を叫んでも、それは多くの人々には届かない。それは果たして挺対協・正義連の責任だろうか。  もちろん挺対協・正義連が、政治家とメディアが作り上げたこのフレームから抜け出そうとばかりしてきたわけではない。ある局面では明らかにそれを利用してもいる。しかしそれは挺対協・正義連の運動が原理原則のみを振りかざすものではなく、現実的に問題解決を追求しなければならなかったからだ。「慰安婦問題」を解決するためには政府の協力が絶対に必要で、それを引きだすためには大衆的な支持も不可欠だ。活動家たちのジレンマはここから生まれる。「韓日戦フレーム」を利用すれば政府の協力も比較的容易に得られる上、マスコミでも大きく取り上げられる。だがもし一貫して「慰安婦問題」のことを、戦時性暴力の問題であり、女性の人権の問題だとばかり主張していたなら、今の韓国社会でのこの運動の位相はどうなっていただろうか? 挺対協・正義連の運動が民族主義的に見えるとすれば、それは韓国の主流社会が(少なくとも規範的には)民族主義的だからだ。運動が成功するためには当然大衆化が必要だが、まさにその大衆が保守的な時、果たしてどんな選択が可能なのか、一度具体的に想像してみる必要がある。  しかし、大変だっただろうと納得することで立ち止まってはならない。大衆に訴えつつ、まさにその大衆が変化していく過程を作り出すことこそ運動の課題だからだ。挺対協・正義連が置かれた条件を理解することは、単にその運動が置かれた困難を理解し擁護するために必要なのではなく、共に新しい運動を作り上げるためにこそ必要なのだ。再び問わねばならない。私にとって「慰安婦問題」とは何なのか?  もうニュースを見るのはやめて具体的な議論を始めよう。 藤井たけし|東京外国語大学教員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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