六大学野球劇的優勝の監督と主将が明かす「チームを変えた考え方」
東京六大学野球で5シーズンぶりの優勝を果たした早稲田大学野球部・小宮山悟監督とエース早川隆久主将がインタビューに応じた。1960年秋のリーグ戦で優勝をかけて争った伝説の「早慶6連戦」から60年目の節目の決戦で、首位・慶大を2位で追った早稲田が2連勝で栄冠をもぎとった。就任2年目の小宮山監督は、エースで主将の早川隆久を含め、入学から1度も優勝を味わったことのない学生の意識を変えただけでなく、自分自身にも大きな変化があった。 【写真】松坂、イチロー、松井、ダル…プロ野球スターの初フライデー写真 ◆人生を変えた出会い 1敗でもすれば慶大に優勝をさらわれる伝統の一戦で、早大は破竹の2連勝。しかも2試合目は九回二死まで1点リードを許し、土俵際に追い込まれながら、8番・蛭間拓也の2点本塁打で逆転する劇的な優勝だった。試合後、優勝監督インタビューに招かれた小宮山は「石井連蔵さんが殿堂入りした年の優勝ですね」と向けられると、「すみません」と言ったまま目頭を押さえ、言葉が数秒間、出てこなかった。 三十数年前、小宮山の現役時代の早大の監督が、石井連蔵氏(故人)だった。4年時に主将に任命され、連日監督室に呼ばれては、早大野球がめざす「一球入魂」の精神を説かれた。プロ野球、メジャーリーグもあわせ、通算20年間、プロ球界を生き抜き、ロッテ時代の2005年には日本一にも輝いたが、今に至る自分の基礎を石井氏に作ってもらったとの恩義がある。 今年の秋は伝説の〝早慶6連戦〟からちょうど、60周年という年だった。伝説の早慶戦で獅子奮迅の活躍をしたのが安藤元博投手(故人)。6試合中5完投だった。この時の監督も、第1期監督時代の石井氏だった。 この安藤氏と似た境遇が、アマ球界有数の投手に成長したエースの早川だった。秋の成績は7試合登板6勝0敗。防御率は0・39。60年前の安藤氏と同様に早川も球史に名を残したと言っていい。安藤さんと早川をダブらせていました、と小宮山は語る。 「早川は打たれないわけですから、安心してみていられる。すごいピッチャーだなと。秋のリーグ戦の開幕から明治、法政に勝って、これは伝説を作るかも知れないなと早川がそんな存在に見えてきた。6連戦みたいな活躍はなかなか起こり得ないんだけど、でも淡々と投げる早川の姿は安藤さんを思い起させた。私が現役時代、安藤さんが安部球場(早大の練習場)にきて、教えてもらったことがあるんです。安藤さんが投げてるのを石井さんが安心して見ていたんだろうなと」 小宮山と早川は2年前、同じグラウンドで歩み始める。 あの人と出会って人生が変わった。 人はどれほど、そんなことを思うだろうか。早川にとって2年間、2勝しか挙げられず燻っていた。そこに新しい監督がやってきて、2年後には優勝の立役者になり、ドラフトで1位指名を4球団から受ける存在になるわけだから、その出会いは人生を変えたに違いない。早川はしみじみ言うのだ。 「小宮山監督と出会って人生が変わりました」と。 「2年前の秋、小宮山監督が就任されて技術的にも野球が変わって、人間的にも自分の生き方が変わりました。監督と初めて1対1で話したのが『この写真を見ろ』と」 それは2年時の早慶戦で、自分と慶応の高橋佑樹(現・東京ガス)投手の写真だった。 ボールのリリースポイントの位置を高橋と比較された。バッター寄りなのか、自分の手元に近いのか。小宮山は事前に、写真を用意していて、何かのタイミングでアドバイスする用意をしていたはずです、と早川は言う。小宮山は当時をこう振り返る。 「練習中のブルペンですよ。ボールを離すポイントが自分に近いので、それじゃあ、バッターは嫌がらないと。前まで持って行って、最後にひとかきして投げるとバッターはお手上げなんだと。ちょっと変えてやれば、すごく変わる確信があった」 それから2週間後、松山で行われた侍ジャパンの選考合宿の紅白戦。関係者の報告で見違えるようなボールになっていると聞かされた。小宮山が続ける。 「手取り足取りは教えてない。理屈を理解したうえで、その先は自分で考える。本人も驚いたと思うんですよね、手に取るように変わって。小さなきっかけで自分で感じとって変われる。それが才能ということだと思うんです」 早川は入学から2年間、チームに貢献できるような結果は残していない。何かきっかけが欲しいところに救世主が表れた。 小宮山が監督に就任して半年がすぎた3年生の夏のことだ。小宮山は「ブルペンに入っても下半身が出来てないと意味がない。ランニングから始めろ」と不甲斐ない投手陣に指令を出した。投手陣の柱になりつつあった早川は自分を律する決意をする。例えば通常は20本のライトとレフトのポール間走を倍以上の50本にした。その他のメニューもタイム設定を速くしたり、追い込んだ。 「50本はかなり、多いです。もう、辛いの一言。しかも淡々と走らないといけない。監督もバッティング練習中の野手も見てる。本気に取り組む姿勢は見せられた」 小宮山が常に言うのは、「普段の練習が本番の神宮球場でのゲームに現れる」 「緊張感をもってやれば、ゲームでもミスは出ない」。小宮山も現役時代、石井監督から教えられたことだ。 早川の野球人生に一番、大きな影響を与え、刺激になったのはキャプテンに指名されたことではなかったか。小宮山がその意図を明かす。 「石井さんが僕をキャプテンにする時に同じような状況だったと思います。同期の野手連中は大人しくて物足りなかった。矢面に立って他のチームの主将とやり合う選手が(早川以外に)いなかった。代表の実績もあるし、相手チームがたじろぐ存在感があるのが早川だった」 3年生の1年間、練習中の態度で芯を感じた。周りに流されることなく自分のことはしっかりやる選手だ、と小宮山に刻まれていたのだ。 コロナ禍での自粛中、こんなことがあった。グラウンド使用が一時期、規制された。早川はグラウンド横の石神井川の護岸の周回歩道を何周も走っていた。小宮山は静かに見守っていたという。 キャプテンとして課せられた大きな宿題が一つあった。早稲田の歴史を知って、部員に還元しろというものだ。その時のことを早川が振り返る。 「早稲田の重みは監督が言うより、同世代から言われた方が歴史の重みも変わってくる、と言われました。キャプテンになってなかったら考えたことなかったと思います」 二浪の末、一般入試で早大に入った小宮山監督は浪人中に早稲田野球部の本を読み漁った。キャプテンになって多くのOBから石井さんの厳しさや、強烈だった6連戦の話を聞いた。主将がつける背番号『10』を背負った早川にさらに向上心が出てきたように見えた。学ぶ機会に恵まれたことは彼にプラスになった、と小宮山は言う。