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次々に運ばれた被爆者…学生らが行った尊い行為

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西日本新聞

戦跡をたどる 現地からの報告

 砲台や防空壕(ごう)、特攻艇の格納庫…。長崎総局の記者たちが県内各地の戦跡をたどり、戦後75年の今の姿を報告する。       ◇        ◇ 【写真】原爆に破壊された旧長崎医科大  イタリア籍クルーズ船から採取された検体が長崎大熱帯医学研究所に持ち込まれた。早期にウイルスを見極めなければ感染拡大の恐れがある。朝から夜中まで4日間。600人を判定。「医師は自分自身のものでなく病める人のもの-」。開学の祖、オランダ軍医ポンペの言葉は色あせない。  研究所の横の丘に高さ20センチ、幅30センチの小さな穴がある。「薬専防空壕(ぼうくうごう)跡」。医学部の前身、旧長崎医科大の付属機関・薬学専門部の教授と学生が掘った。当時は高さ1・5メートル、奥行きは10メートルあったという。  提案したのは清木美徳教授(1999年死去)。戦況が悪化する中、医療技術の習得を急ぐ医学生の講義は続いた。専門部は6月いっぱいで打ち切られ壕掘りに専従した。

 あの日、ここに29人がいた。爆心地から700メートル。「助かったのは、壕の中で作業をしていた清木教授と5人の学生だけでした」。案内してくれた客員教授の三根真理子さん(70)の言葉が胸にこたえた。  壕には次々に負傷者が運ばれた。学生らは水をやることしかできない。手記がある。「一人一人に心ゆくまで水を飲ませてやった。天の与えてくれた唯一の慰めだった」  2018年5月、壕の説明板が設けられた。自分のためだけではなく、誰かのために壕を掘り、水を飲ませた。そんな尊い行為があった場所なのだ。「多くの人に知ってほしい」。三根さんの願いに心を重ねた。 (坪井映里香) ※記事・写真は2020年05月01日時点のものです

西日本新聞社

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