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香港の美術界は「国家安全法」にどう反応しているのか? 「アートによる抵抗は恐怖では消えない」

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美術手帖

 中国政府は6月30日、香港特別行政区における国家安全を維持するための「香港国家安全維持法」(以下、安全法)を施行。それとともに、中国中央政府の監督や問責を受け、法執行力を整備する国家安全維持委員会や国家安全維持部門なども設立した。  香港立法府の頭越しに採決されたこの安全法では、国家分裂罪、国家政権転覆罪、テロ活動罪、外国または境外勢力と結託し国家安全に危害を及ぼす罪といった4種類の犯罪行為の構成や相応の刑事責任、そしてそれに対応した処罰などを規定しており、第38条では「香港特別行政区外の者が香港特別行政区に対して罪を犯した者も本法律に基づいて処罰される」と香港の外に対しても影響力を持つことが示されている。  同法の採決後、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアは中国当局にを非難する共同声明を発表しており、菅義偉官房長官も記者会見 で、「議決が、国際社会や香港市民が強く懸念するなかでなされたこと及びそれに関連する香港の情勢を深く憂慮している」と発言している。  こうしたなか、施行に先立ち5月には、香港で1500人以上の文化・芸術関係者が同法成立への反対声明 を発表し、次のような懸念を表明した。「国家安全法は、アーティストや文化人を禁止事項違反の危険にさらし、芸術表現、言論の自由、文化交流、さらには個人の安全さえも害する恐れと自己検閲の風潮をつくりだすだろう。その結果、文化都市としての香港のイメージと経済へのダメージは計り知れない」。  同法の施行により、多くの香港アーティストは台湾など海外に移住することを決めたという報道 も出ている。施行から約1ヶ月が経った現在、香港の美術界は実際にそれがもたらす影響についてどう思っているのだろうか? 「美術手帖」では、複数の現地の美術関係者に話を聞いた。 基準不明瞭な「レッドライン」  香港を拠点に活動するアーティストへの支援を目的に設立された組織「香港藝術家工會」(Hong Kong Artist Union)の中心メンバー、ケイシー・ウォンは次のように語る。「香港国家安全法の施行は香港社会全体に衝撃を与えました。アーティストは抽象的に、繊細に、間接的に自分自身を表現する能力を備えているので、この安全法はアーティストよりむしろ、アートの表現手段を持たない市民に対し、もっとも影響を与えていると言えます」。  ウォンによれば、政治を題材に制作を行うことが、近年の香港のアート界で大きな現象となっているという。2014年の反政府デモ「雨傘運動」、19年の香港民主化デモ以降、政治問題を取り上げるアーティストが増えており、ウォンも天安門事件や中国の検閲、国歌法などの問題に焦点を当て、様々な政治的パフォーマンスを披露してきた。「この5年間、北京からの政治的圧力が急激に高まり、悪政の実施、警察の蛮行や暴力、香港人の権利侵害などにより、アーティストの精神的苦痛が現実のものとなっています。政治を題材にする傾向はアーティストにとって自然な展開であり、『時代の精神』への応答なのです」。  ソーシャリー/ポリティカリー・エンゲイジド・アートを発表するアーティスト・魂游(ウェン・ヤウ)は、「正直なところ、いま仕事や研究のなかで声を上げると、脅威を感じます」としつつ、こう話してくれた。  「しかし、私はそのような脅威があるにもかかわらず、アートの自由のために努力し最善を尽くします。私は中国本土在住のアーティストの友人から刺激を受けています。彼らは、国家警察によって抑圧され、つねに検閲されたり逮捕されたりしていますが、いまでも様々な手段を駆使しながら発表を続けているのですから。アート作品の解釈はオープンであり、私は政治的なメッセージをそこから読むことを避けたり止めたりすることはできません。私はアーティスト/研究者として働いており、自分の作品を公に発表するときに、正直かつ真面目な態度をとりたいのです。私は自由を信じる人々のために作品を制作し続けており、私たちから自由を奪う人々のためではありません」。 香港アーティストのサバイバル術  今回の安全法における最大の懸念のひとつは、法律の解釈が中国当局の意思によって大きく左右されることだ。ウォンは、「いわゆる『レッドライン』(越えてはいけない一線)は、警察によってその解釈は完全に異なり、しかもつねに変化しています。今日のレッドラインはクマのプーさん、明日は洪水の話題になります。2週間前には、A4の白紙を掲げて警察に逮捕された事件もありました」と振り返る。  こうした状況下、民主化を訴える香港の人々は、白紙や、「立ち上がれ、奴隷になることを望まぬ人々よ!」といった中国国歌の歌詞などを掲げて抗議を続けている。アーティストも、その現実をより抽象的な表現手段に変え、曖昧な方法でメッセージを伝えようとしている。  この現象についてウォンが説明してくれた。「キュレーター、ギャラリーの所有者、美術館の管理者による検閲から逃れるために、彼らの作品はよりコード化され、洗練されたものになるでしょう。このような暗号化されたアート作品は中国本土にも存在しており、こうした高度な政治的圧力の下で生活している鑑賞者はもちろん解読することができるのですが、外界にいる人々には説明が必要です。いずれにしても、アート制作による抵抗は、恐怖で消えるわけではないと思います。恐怖は初期段階だけにあり、制限が確立されると創造性も発揮されます。香港のレジスタンスアートはますます洗練されていくでしょう。私はそれをとても前向きに考えています」。  以前、魂游は中国本土の芸術祭で私服警官の前でパフォーマンスを披露した経験があったという。当時のことを「私は社会政治的な問題に触れるためにパロディー的な戦術を使い、彼らをライブパフォーマンスに引きずり込んだこともあります」と振り返りつつ、自身の姿勢について次のように語る。  「私は、自分たちが信じるもののために戦う強い意志を持ち続け、権威主義によって生みだされた恐怖を克服しなければならないと信じています。いっぽう、レジームをいじるには、作品に想像力や弾力性を備えなければならなりません。そのためには、一連の芸術的スキルを身につける必要があります」。 沈黙する美術機関  いっぽう美術館などの施設はどうなのか。国家安全法が与える影響について、香港のM+や大館(タイクン)、Para Site芸術空間などの美術館やアートセンターに問い合わせたが、回答は得られなかった。  こうした香港政府が運営または支援している機関について、ウォンは次のように批判する。「残念ながら『芸術監獄』の監視人となり、アーティストの制作の監視を担当するのです。彼らの仕事はこの新しい国家安全維持法で危険に晒されるので、展示やプログラムにおける『敏感な』作品を排除するために尽力するでしょう。最終的には、そのような機関の最高管理層に親共産主義の政治局役員が配置され、中国本土ですでに起こっているように、すべてのアートが監督されます。ここ最近では、香港政府はアートについて何も知らない筋金入りの親中派を香港芸術センターを監督する役職に任命したケースもありました」。  香港の美術館関係者は匿名を条件に、次のように述べている。「私たちはまだ何も変わっていないように感じます。(安全法については)何も言えないし、聞くこともできない。それぞれの機関はまだ様子見しています」。  ギャラリーや美術館が自己検閲するのではないか、という懸念に対し、香港のデ・サルテ・ギャラリーのディレクター兼香港画廊協会副会長のウィレム・モールズワースは、楽観的な態度を示しつつ、警戒感を強める。  「デ・サルテの展示計画は変更されていません。私たちは、アジアから発信する、限界を押し広げる現代美術の展示を続けていきます。国家安全維持法が香港のアートシーンに与える影響はまだ明らかではありませんが、現在では、アートにおける表現の自由は維持されています。ギャラリーや美術館は、重要な談話、反省、思考の場であり続けています。しかし、これが変わる可能性も確かにあるのです」。 表現の自由と経済の繁栄とのバランスが重要  ロイターが6月に香港民意研究所に依頼して実施した世論調査 によると、49パーセントの人が安全法を強く反対するのに対し、支持する人は34パーセントだった。また、匯豊(HSBC)、渣打(Chartered)銀行など香港を拠点とするイギリス系企業や、長和集団、新地集団、新世界集団など香港の財閥も、安全法への支持を表明している。  こうしたビジネス界の大企業が同法を支持する理由は、安全法の実施により、昨年から続いてきた民主化デモや、新型コロナで打撃を負った香港経済の回復、そして中国本土からの資金流入を期待しているからだと考えられている。  アーティストたちが表現の自由を重要視するいっぽうで、美術館やアートセンターが地方政府や財団による資金に大きく依存して運営することや、ギャラリーが安定したビジネス環境を重視する立場であることも現実だ。  モールズワースはこう続ける。「ギャラリーは、自分の考えを表現する自由と、強固で繁栄する経済の必要性との重要な交差点に位置しています。香港がアート界の重要な文化的および金融的中心であり続けるためには、これらふたつの力が共存し続けなければなりません」。

文=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

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