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「B29は舞いながら落ちた」さびた銃弾、朽ちた薬莢…今も残骸眠る山

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西日本新聞

巨大な翼「こりゃ勝てんわ」

 75年前、墜落する米爆撃機B29を目撃した新名正一さん(85)は、現場から直線距離で数キロ離れた大分県臼杵市の山間部に住んでいた。  1945年5月7日午前、大分市の方向から飛んでくるB29の編隊に気付いた。当時、10歳。周囲を飛び回る日本海軍の紫電改数機は小さく、カラスと見間違えた。自宅の庭にある杉の木の真上に当たる上空でB29の左翼がちぎれ、山向こうに落ちていく胴体部分からは複数の落下傘が降下するのが見えた。  新名さんは、地元の大人や級友たちと一緒に、左翼の墜落現場に駆け付けた。翼は日本の戦闘機1機よりも大きい。村では当時、羽釜や風呂釜も戦争のために回収されており、残骸から使えそうな金属を持ち帰る村人の姿を見て、「こりゃあ日本は勝てんわと思った」。  村議だった新名さんの父は自宅にあった日本刀を腰に差し、猟師とともに米兵の捜索に当たった。「虫の息の仲間に水を飲ませよる米兵と猟師が遭遇した。米兵はピストルを構えたが、猟師が銃を向けると地面に置いた」と、新名さんは父親から聞かされたという。

 墜落したB29の搭乗員11人のうち、10人がその場で死亡。新名さんの父親らの手で山中などに葬られた。地元に残る記録によると、捕らえられた米兵は憲兵隊に連行され、45年6月に陸軍西部軍司令部(福岡)で処刑されたとされる。  新名さんが目撃したB29編隊による爆撃では、民間人にも犠牲が出た。墜落現場から45キロほど離れた大分海軍航空基地近くの日豊線の鉄橋付近に爆弾が落ち、10人が亡くなったと、「大分の空襲を記録する会」の資料集には記されている。

日米の犠牲者悼み慰霊祭

 B29の残骸の捜索に当たった深尾裕之さん(49)や稲田哲也さん(48)らは今年2月、銃弾や金属片が見つかった大分県佐伯市の山中で日米双方の犠牲者を悼み、慰霊祭を行った。黙とうした佐伯鶴城高の高橋琴羽さん(16)は「見つかった銃弾はずっしり重かった。これが人に向けられたのかと思うと…。多くの人が命を落としたという事実に胸が苦しくなった」と話した。  こうした様子を深尾さんが米国在住のB29研究家に連絡すると、「父や仲間のクルーのために式典をしてくれてありがとう」と米兵遺族の一人からメールが届いた。弾丸や金属片の一部は同高で学習に使われるほか、公的施設への展示も求めていくという。  墜落した日本軍機の捜索にも取り組む稲田さんは「戦後75年がたち、日本上空の戦闘で命を落とした人たちのことが忘れられていく。国を守るために戦った日本人や、異国で亡くなった米国人の生きた証しを残したい」と行動の理由を語る。  2人の活動もあり、地元の戦史を研究する「歴進会」の手で昨年11月、B29墜落の史実を伝える看板が、佐伯市の宇藤木地区に設置された。 (久知邦)

◆B29の航空施設爆撃

 米軍は沖縄侵攻に合わせ、九州の各航空拠点を狙ったB29による爆撃を本格化させた。米艦船に向けた日本陸海軍の特攻や夜間攻撃などの出撃基地を攻撃する目的だったとされる。航空史家の渡辺洋二氏の著書「死闘の本土上空」によると、爆撃が本格化した1945年4月17日~5月11日に延べ2104機が出撃、損失は25機にとどまった。一方、日本は3カ月に及んだ沖縄方面航空作戦で計2370機が未帰還。爆撃による地上での大破も含め、「再建不可能な戦力を喪失した」と書かれている。

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