東京・青山でクーデターへの抗議デモ: 在日ミャンマー人の苦難はいつまで続く?
室橋 裕和
2021年2月1日、ミャンマーで発生したクーデターに反対するデモが、東京・青山の国連大学本部ビル前で行われた。日本で暮らすミャンマー人たちが1000人ほど集まり、拘束されたアウン・サン・スー・チー国家顧問の釈放を訴えた。その激しい怒りの背景には、彼ら在日ミャンマー人がたどってきた苦難の歴史がある。
国の家族と連絡が取れない
「スー・チーさんは国のお母さんなんです、返してほしい」 そう訴えるのは、来日8年ほどになるというミャンマー人の女性。ふだんは都内に住み、寿司屋で働いているというが、「今日ばかりは仕事が手につかない。休ませてほしいと店長さんにお願いしてきました」と、プリントアウトしたアウン・サン・スー・チー国家顧問の写真を掲げる。一緒にデモに参加した仲間たちとともに、スー・チー氏率いるNLD(国民民主連盟)のシンボルカラーである赤い服を着て、声を上げる。 彼女のようなミャンマー人が昼過ぎの国連大学前の広場を埋め尽くした。フェイスブックで情報は拡散され、留学生や会社員、主婦、商店主、さらには難民申請中の人たちなど、さまざまな立場のミャンマー人が続々と集まってくる。およそ1000人くらいだろうか。 日本で暮らすミャンマー人はおよそ3万3000人、うち都内在住が9300人なので、割合としてはかなりの数の人々がデモに参加したことになる(※数字は法務省、東京都による)。 「アウン・サン・スー・チーを返せ!」「軍は選挙結果を認めろ!」とシュプレヒコールを上げる。その姿には必死さが漂う。 ふだんは温厚なミャンマー人とは思えない気勢だが、そこには故郷の家族と連絡が取れない不安がにじむ。軍はインターネットや電話を遮断しており、現地の情報がなかなか伝わらず、家族の安否がわからない人たちが大勢いるのだ(その後、少しずつ通信は回復したが、いつ再び遮断されるかわからない恐怖は変わらない)。
1988年の民主化運動弾圧から逃れてきた世代
これだけの激しい反応を示す背景には、彼ら在日ミャンマー人の「ルーツ」が、やはり軍事政権の弾圧にあるからだ。 1962年に国軍がクーデターによって政権を掌握してから、ミャンマーではずっと軍部独裁が続き、言論や参政の自由がない状態が続いていた。大規模な民主化運動が起きたのは88年のことだ。学生たちを中心に民主化を要求するうねりが全国に拡大した。 「建国の父」と呼ばれるアウンサン将軍の娘、アウン・サン・スー・チー氏が運動のシンボルとなり、選挙の開催を目指してNLDを結成するが、軍は実力行使に出た。運動を武力で弾圧し、数千人を殺害。このときたくさんの学生や民主化運動家たちが、国を追われて難民となったのだ。 彼らの一部は日本にもやってきた。根を下ろしたのは、東京・高田馬場(新宿区)だった。もともと高田馬場から西武新宿線で2駅先の中井駅周辺に世話好きのミャンマー人夫妻がいたことがきっかけだったといわれる。難民となった学生たちは夫妻を頼って少しずつ近辺に住むようになってくる。やがて数が増えてくると、より交通の便が良い高田馬場にコミュニティは移っていった。そして彼ら在日ミャンマー人の「第一世代」が暮らす高田馬場は、いつしか「リトル・ヤンゴン」と呼ばれるようになっていく。 慣れない異国でミャンマー人たちは飲食や建設などの現場で働き、日本語を学び、日本社会に溶け込みつつ、故郷の民主化運動を支援し続けた。 やがて時代は流れ、国際社会の圧力もあり、軍に軟禁されていたスー・チー氏は釈放された。2011年には民政へと移管され、長い軍政は終わりを告げる。15年にはとうとう、念願の総選挙が行われ、NLDは大勝。スー・チー氏は国のトップに立った。ようやく「政治への参加」が認められ、安心して帰国できるようにもなったのだ。 「だからこそ、また元に戻そうとする軍は許せない」と憤るのはタン・スィウさんだ。 やはり「88年」を機に来日した元難民で、いまは高田馬場でレストラン「スィウ・ミャンマー」を営む。 「いてもたってもいられず、今日は店を閉めて来ました。軍事力を背景に選挙の結果をひっくり返そうとする軍を認めるわけにはいかない」 自分たちが異国に流れる原因となった「88年」が重なるのだという。それだけに怒りは大きい。