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今川義元と桶狭間の戦い~凡将にあらず【にっぽん歴史夜話】

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サライ.jp

文/砂原浩太朗(小説家) 近年、戦国史の見直しが目覚ましいほどにすすんでいる。武将への再評価もさかんであり、桶狭間で織田信長に敗れた今川義元(1519~60)などは、その好例だろう。かつては軟弱な凡将のように語られていたが、現在はかなりの復権が果たされている。また、桶狭間の戦いそのものについても、解釈の変わってきた部分が多い。本稿では、戦国屈指の合戦ともいうべき桶狭間と今川義元像の「現在」を紹介する。

花蔵の乱~家督あらそいを制して当主に

今川家は足利氏の支流にあたり、駿河・遠江(ともに静岡県)をおさめる名族。義元は父・氏親の5男(異説あり)として生を享けた。ちなみに氏親の母、つまり義元にとって祖母にあたる女性が北条早雲の姉(従来は妹とされていた)である。後述する北条家との結びつきは、ここに端を発しているわけだ。 家を継ぐ身でなかった義元はおさなくして寺にはいり、仏道修行にはげむ。このとき指導にあたったのが、のち彼の片腕となる太原雪斎(たいげんせっさい。1496~1555)だから、奇縁というしかない。雪斎は今川の家臣すじにあたる武家の出で、僧侶ながら軍略・政略に秀でた傑物だった。また義元には、雪斎とともに都で修行を積んだ時期もあり、この経験が京文化への造詣を深くしたことは容易に想像できる。 18歳のとき、当主となっていた長兄が没し、義元とやはり出家していた庶兄・玄広恵探(げんこうえたん)のあいだに家督あらそいが起こる。これを花蔵(はなぐら)の乱といい、家中を二分する政争となった。雪斎のはたらきかけもあって義元が幕府から相続者として認められ、これを不服とする恵探を追討。彼の敗死をもって乱は義元方の勝利におわるが、くわしい経緯には不明な点が多い。長兄および次兄(恵探とは別人)が同日に死亡したというのも謎のひとつ。とうてい偶然とは思えぬ事態であり、何者かがたくらんだことではと疑いたくなる。が、どう推理するにせよ、憶測の域を出ないのもたしかである。

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