異郷の捕手・白仁天、20年の波乱と流転。もっとも語り継がれる“事件”とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1962~81年】
歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
「監督や皆さんの期待に応えたい」
20世紀に韓国から来日して、日本のプロ野球で結果を残した選手といえば、中日で星野仙一監督2度目の優勝に貢献したクローザーの宣銅烈を思い出す人も多いことだろう。来日の際に現地メディアが「国宝の持ち出し、許すまじ」というキャンペーンを張ったほどの、まさに“韓国の至宝”。韓国プロ野球で圧倒的な結果を残した剛腕は、日本でも強烈な印象を残した。ただ、もし韓国にプロ野球がなかったら、宣が現地で“国宝”と騒がれることもなく、もちろん来日もなく、それどころか野球という道を選ばなかったかもしれない。 宣より34年も前、1962年に韓国から来日した選手がいた。その名を白仁天という。この2020年、奇しくも宣のいた中日で助っ人のマルティネスがマスクをかぶって話題を集めたが、白もポジションは捕手。入団したのは東映、現在の日本ハムだった。そこそこプロ野球の歴史に詳しい人なら、“武闘派”として名前を知っているかもしれない。“暴れん坊”軍団の東映でも抜群に気が強く、さらに短かったことも間違いないが、それは試合でのこと。ひとたびグラウンドを離れれば気の優しい男だったという。 7人きょうだいの3番目として誕生。兄の影響で小学生のときから毎日のようにキャッチボールをするようになり、高校3年で捕手に。来日してみたものの、3カ月ほどは日本食が食べられず、刺身も焼いてもらったり煮てもらったり、いろいろと先輩の張本勲らのフォローを受けながら、だんだんと慣れていったという。武器は強打。インサイドワークに難があったものの、打撃を買われて2年目から先発マスクを経験する。以降、着実に出場機会を増やし、4年目には出場100試合を超えた。 だが、5年目に水原茂監督から「お前が捕手をすると試合に負ける」と言われて、外野手に転向。こう言葉にすると最後通牒を突きつけられたようだが、水原監督は前述のセリフを冗談めかして言って、転向を命じたという。戦後はシベリアで抑留された経験もある水原監督が、異郷の地で孤軍奮闘する白に気を配ったものかもしれない。白も、「捕手に限界を感じていたから、うれしかった。もともと僕の取り柄は打撃と足です」と語る。 体型こそ当時の捕手らしく、ずんぐりむっくり。ただ、足もさることながら、敏捷な動きも魅力だった。「目標は広瀬叔功(南海)さん」とパ・リーグ屈指の韋駄天を目指した白は、外野手として打撃に集中していく。「打撃ひと筋に生きて、監督や皆さんの期待に応えたい」(白)。真面目で不器用な男だった。だが、打撃が満開の花を咲かせる前に、壁にぶつかる。それこそ、もっとも語り継がれる白の“事件”だ。