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カープOB大野豊氏が語る1991年V・前編「津田の離脱で私は腹を括った」

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広島アスリートマガジン

 中日との接戦を制し、カープがリーグ優勝を成し遂げた1991年。このシーズンの大きなトピックとして語られるのが、“炎のストッパー”津田恒実の離脱だ。多くのチームメートから慕われていた津田の離脱は、当時のカープにどのような影響を与えたのか? 数々の苦難を乗り越えつかみとった栄光の瞬間を、この年ストッパーに君臨していたカープOB・大野豊が振り返る。 【写真】「広島駅がとんでもないことになっていた……」山崎隆造氏が語る連続日本一の舞台裏。  リーグ優勝を達成した1991年、私は前年に先発として結果を残せずにいた時点で“引退”の二文字が頭に浮かんだ状態で開幕を迎えていました。体の調子が悪いというわけではなく、どこか自分の投げた球に気持ちが乗っていかないという感覚を初めて覚えるようになっていたのです。『自分もとうとう時期が来たか』と覚悟を決めたのです。とにかく1イニングが長く、5イニングを投げ切るのもしんどく感じていました。そうした自分の状況もあって、当時監督だった浩二さん(山本浩二監督)から、リリーフ転向の打診を受けていたのです。  開幕当初は津田(恒美)とのダブルストッパー体制でしたが、心のなかでは津田に頼っている部分があっただけに、津田がシーズン序盤に病気でチームを離れることが決まったときは大きな不安に襲われました。  ただふたを開けてみれば、当時の日本新記録である14試合連続セーブをマークするなど、“神懸かった”投球をすることができました。私はこの活躍が自分の力だけのものとは決して思っていません。津田が離脱したことで腹をくくり「津田の分までやってやるぞ」という想いを持ったことが大きかったのだと思います。22年間プロ野球選手でいることができましたが、このような力を感じた年はこの年だけでした。首脳陣もこのシーズンは私に対して「15球以内で帰ってこいよ!」と発破をかけてくれました。  ただ結果を残していたとはいえ、体調は万全ではありませんでした。肘の調子も悪くなり、痛み止めの薬を用意していました。薬を持ってブルペンにいき、出番がくると思えば、痛み止めの薬と胃薬を飲んで投げる毎日でした。裏を返せば、“そうしてでも投げたい”と思った自分がいたということです。津田のことを考えると「そう簡単にくじけていられない」と思いマウンドに向かうようになっていきました。  優勝は簡単にできるものではありません。あの年も夏場に中日との競り合いのなかで連敗が続き、一時リードをつけられてしまいました。そんな状況もあってか夏場に浩二さんが選手を集めて、津田の本当の病気を選手に伝えたのです。津田が脳腫瘍であること、投げたくても投げられないということ……。離脱当初は水頭症と発表されていましたが、私たちも薄々違う病気じゃないのか、と気づき始めていました。それだけに優勝して津田を優勝旅行に連れて行こうと、そのミーティングを通じて選手が一致団結したことを覚えています。 (後編に続く)

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