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日本の「自称リベラル」たちはなぜ「上から目線」をやめられないのか…その意外なワケ

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現代ビジネス

 いま日本で「リベラル」を称する人々は、自分のロジックだけが絶対正しいと主張するばかりで、現実の生身の人間というものを忘れてしまっている──そう指摘するのは『リベラルの敵はリベラルにあり』の著者・倉持麟太郎氏だ。リベラル本来の大切な価値観を取り戻し、真に個人を尊重して民意を反映する民主主義を再生するための氏の提言とは――。 【写真】安倍総理が恐れ、小池百合子は泣きついた「永田町最後のフィクサー」

「上から目線」の説教ばかり

 「リベラルの敵はリベラルにあり」  一見攻撃的な文言だが、過日出版された拙著のタイトルである。  まるで特定の政治勢力を批判しているかのように捉えられるかもしれないが、私が議論の対象にしたいのは、与党でも野党でも特定の政治家でも政党でもない。その先に広がる、いまだに日本政治、日本社会が獲得していないリベラルの地平だ。  AI・データグローバリゼーション社会、ポピュリズムやライト独裁が支持され台頭する市民社会……などなど、手垢がついたりカビが生えたりしている「リベラル」な概念では、もはや現代社会を泳ぎ切れない。リベラルな価値観を大切だと信じるからこそ、立憲民主主義とリベラル自体の病理現象に向き合い、これらをアップデートする必要がある。  現在、日本に真のリベラル勢力が存在するのかという根本的な問題も含めて、我が国ではリベラルと目される勢力は極めて劣勢である。リベラルが語る言葉や社会設計は、大多数の“生活者”たちに届かないし響かない。  これには我が国に限らない問題や我が国固有の問題含め、いくつか原因がある。

「唯一絶対」の正解であるかのごとく…

 まず、我が国に限らない問題として、「リベラル」が語る社会設計には現実味がなくなってしまったということがある。リベラルな社会の基礎単位である「個人(individual)」概念が、現実の生身の個人と乖離しすぎているのだ。  リベラルは、その初期設定において「合理的で強い」個人を前提としたが、我々誰しもが気づいているとおり、生身の個人はしばしば不合理な選択をするし、説明のつかない儚さや弱さを内包した存在である。それにもかかわらず、リベラルな社会設計はおよそ「合理的で強い個人」概念から出発して構築されるため、現実の「個人」とのギャップは、必然的に法制度や国家像、ひいては市民社会の在り方に、歪みとなって反映されてしまう。  また、リベラルな価値を共有する対話の姿勢が「上から目線」に過ぎた。  本来、リベラルな価値を守るための“不断の努力”(日本国憲法でいえば第12条)は、自分と価値観が違う人間に対しても辛抱強く伝えようとし続ける企てであったはずだ。  しかし、リベラルは、自陣のロジックの正しさを、まるでそのロジックが唯一絶対の正解であるかのごとく、説教台から「上から目線」で語り続けるばかりだった。リベラルの価値をその対話の姿勢に体現させる、という不断の努力をリベラル自身が放棄してきてしまった。

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