口を開けば「世界的」大胆な兄と堅実な弟の二人三脚で大躍進 野村徳七(上)
「調査の野村」誕生、欧州大戦バブルで野村ブラザース大躍進、そして……
「調査の野村」が誕生するのは、1906(明治39)年のことで、大阪毎日新聞の敏腕記者、橋本喜作(ペンネーム:奇策)を2倍の月給でスカウトし、調査部の責任者にすえる。それまでの株式仲買はヤマ勘やケイ線に頼っていたが、野村は業界に先駆けて「調査」に力を入れる。 野村が大飛躍をやってのけるのは大正期に入って欧州大戦バブル景気のころだ。野村の当時の戦いぶりを振り返ってみよう。1914(大正3)年大戦が勃発すると、郵船、商船など船株を中心に一斉に買い出動する。橋本喜作率いる調査部のデータ収集、分析に基づいて出動した。1916(同5)年には久原房之助の久原鉱業株でも伝説的な大勝利をやってのけ、1919(同8)年末には野村家の資産は3500万円(現在の価値にするとざっと、1000億円か)に達していた。それは野村徳七・実三郎コンビが産んだリスクを冒してのキャピタルゲイン(値上がり益)があった。 だが、好事魔多し。この時、実三郎がインフルエンザで命を落としてしまう。実三郎と二人三脚で築いてきただけに痛恨の極みであった。徳七は日記に書いている。 「実三郎のいうがままに一々水盃を酌み交わし、1人1人堅き握手をなして決別し遺言を聞いて、…一同の健康と野村家の繁盛を祈るとて、その態度自若として平素と少しも異ならず」 野村が大阪市立大に100万円の巨額を寄付するのはこのころだ。前出の岩本栄之助が大阪市に100万円寄付して中央公会堂ができるが、野村の寄進で大阪市大経済研究所ができ上がる。 また野村と同時代の三品市場の名物相場師田附政次郎が京都大に50万円を投じ、京大北野病院ができる。大正バブル期に富豪たちは争って寄付を申し出た。それは一つの社会現象ともなった。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ※次回は10月28日(金)17時に「野村徳七(下)」を配信予定です。 2代目 野村徳七(1878-1945)の横顔 1878(明治11)年大阪府生まれ。父初代野村徳七は両替商を営んでいたが、その長男が信之助(2代目徳七)で、大阪市立商業学校(大阪市立大)に通うかたわら、義兄のもとで株の仲買を手伝う。日露戦争のころ本格的に株式界に進出する。弟実三郎とのコンビで大もうけ、1908(明治41)年8カ月間の欧米視察に出掛ける。その一方で弟を英国に留学させる。1914(大正3)年船株を買って大勝利、1918(同7)年野村銀行を店開きする。1922(同11)年野村合名を設立、1933(昭和8)年金輸出再禁止でも伝説的大勝利を収める。