口を開けば「世界的」大胆な兄と堅実な弟の二人三脚で大躍進 野村徳七(上)
野村証券、大阪野村銀行(のちの大和銀行、現在はりそな銀行)で知られる野村財閥2代目野村徳七の相場人生の成功に大きく貢献したのは弟・実三郎でした。強気の兄に対して堅実な弟の二人三脚があってこそ、欧州バブル作戦でも成功を収めることができたのではないでしょうか? 2代目徳七の投資家人生の前半戦を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
大胆積極的な兄・徳七と堅実一本やりの弟・実三郎
野村証券の始祖・2代目野村徳七は日露戦争景気で大勝利を収めるが、口癖のように「世界的」という言葉を使い、新聞記者たちを煙に巻いていた。そのころの野村徳七評が残っている。 「野村はいわゆる大阪筋の一人物である。口を開けば『世界的』、これぞ彼の言い草である。今日の彼は失意時代で一時彼の傘下に集まっていた北浜の連中も今は『向こうを張ってやれ』となって一向に振るわぬ。ある物好きが彼の借金を調べたところ、いつも1000万円をくだったことがないと、舌を巻いていたが、そのいかに太っ腹であるかが、うかがわれる」 引用文中の「向こうを張ってやれ」というのは、野村の売買に向かって反対売買をすることを指す。「曲がり屋に向かえ」の意。 これは明治末期のことだが、この数年後に野村は大化けする。大阪筋の1人と、十把ひとからげに扱われていた野村が「世界の野村」の土台を作り上げてしまうが、それは実力のほかに運も味方につけたからである。そして2つ違いの弟実三郎の存在が大きかった。強気一点張りの徳七に対しブレーキ役の実三郎がいたからこそ、野村は雄飛することができたのである。『大阪商人太平記』(宮本又次著)はこう記している。 「徳七の大胆積極的な行動に対し、実三郎の堅実主義がコンビとなり成功した。徳七は強気一点張りで悲観というものを知らなかったが、実三郎は弱気で堅実一本やりで、時に意見の相違からつかみ合いのケンカをやって争うこともあった」
天才野村徳七伝説の陰で、岩本栄之助に助けられる
野村徳七の相場界における最初の大勝利は日露戦争の株式大相場のときである。成金王、鈴久が兜町の話題を一人占めしたころ、野村は大阪北浜を本陣にして買いから入って大もうけする。しかし、あまりの株価高騰に途中から売り方に転じる。これが大失敗で追証(おいしょう)攻めにあい、大阪株式取引所の大株主で同業の株式仲買、岩本栄之助に懇願して売り出動してもらい、窮地を脱出することができた。 実はこの時、野村は顧客向けの情報誌『野村商報』(1907<明治40>年1月8日付)に「相場は狂せり」と題する予想記事をのせる。確かにその10日後、さしもの狂乱相場もピリオドを打ち、ガラに転じる。だから後世の史家は「徳七の大予言」として、天才野村徳七伝説を作り上げるが、内実はカラ売り玉が大きな損勘定になり四苦八苦していたのである。鴻池銀行を拝み倒して追証作りに死に物狂いになっていた。 日露戦争大相場の分水嶺となる1907(明治40)年1月21日(月)からの暴落によって野村は命拾いする。そのきっかけとなるのが岩本の売り出動であり、野村にとって岩本は命の恩人である。10年後、その恩人岩本が相場を読み違えて大きな損を抱え、ピストル自殺で39歳の生涯を閉じるのだから相場界は非情である。