<高校野球>ベスト16へ進んだ佐野日大の麦倉監督に宿る阪神タイガース魂
26年ほど前は阪神タイガースの将来を期待された右腕だった。 佐野日大時代には、1989年に栃木大会を全試合無失点で学校創立初の甲子園出場を果たし、開会式直後の 近大福山戦で、自ら決勝のホームランまで打つ、ワンマンショーで1-0の完封勝利。続く2回戦の初回まで、48イニング無失点記録を作った。その140キロ後半の球威と超高校級の正確なコントロールでプロのスカウトの注目を集めた。 1989年のドラフト3位で阪神に指名されると、2年目に故・中村勝広監督に抜擢された。1991年5月6日の大洋戦(現横浜DeNA)で初先発初勝利の快挙。1番に屋鋪、4番にパチョレック、5番に高木豊を擁する打線を7回途中まで、1失点に封じて連敗を脱出、関西のスポーツ紙の1面を独占した。当時、暗黒時代を迎えていた阪神において麦倉は希望の星だった。ローテに入り、23日の大洋戦でも2勝目を記録したが、彼のキャリアにおいて、これがプロで最後の白星になった。夏以降、右肩痛に悩まされ、その後、2度手術をしたが思うように回復せず、わずか5年でユニホームを脱いだ。 引退後、スポーツメーカー「デサント」の阪神担当として第2の人生を順調に歩んでいたが、麦倉の恩師でもあり、春4度、夏6度夏の甲子園出場を果たし、巨人の沢村拓一らを育てた名将、松本弘司監督の勇退に伴い、次期監督として声がかかった。「いつか母校に恩返しができれば」と、2014年には講習を受けてアマチュア指導資格も復活させていた麦倉は、40代半ばで巡ってきた人生の決断に迷いはなかったという。 「お話をいただき即決でした。故郷であり母校。そして何より野球が大好きなんですね。家族も、どうせ反対してもやるんでしょう、と、僕の気持ちをわかってくれているので賛成してくれました」 監督としてのポリシーがある。 「選手を故障をさせないことです。無理をすると負担がかかります。だからピッチャーは複数作り、継投で戦うんです。幸い阪神時代に、継投のタイミング、準備は学びました。高校時代の経験とプロの経験。その両方を指導に生かしています」 肩を痛めて、わずか5年で野球を奪われた苦い過去。後輩達に、そんな思いはさせたくない。 「甲子園に出れば人生は変わります。でも高校野球がすべてじゃありません。あくまでも、これからプロ、社会人、学生と上に進んで野球をやるための基礎を作っておく場所です。勉強することは、もちろん、人間教育の基礎を学ぶ場所なんです。そういう基礎を作りながら勝ちたいですね」 佐野日大には野球部寮があるが、週に2,3日は、一緒に泊り込み、その私生活にも目配りをしている。 最後に。 「阪神魂は、指導に生かされているのか?」と質問を投げかけたが、「そこだけはしっかりと書いてくださいよ」と、言って、白い歯を浮かべた。 「もちろん、阪神魂は、ちゃんとあります。木戸さん(当時のキャッチャー)の言葉が、今でも耳から離れません。『ミットだけを見て投げ込め』『ランナーを貯めるな』と」 まだ20歳にもならない麦倉は、カクテル光線を浴びた満員の甲子園のマウンドで、当時の正捕手、木戸克彦(現在阪神フロント)に、そう励まされ腕を振った。今から考えると高校生が学ぶピッチャーの原則だった。 ファンの叱咤と激励。とんでもない数のマスコミにも揉まれて味わった天国と地獄。麦倉監督の胸には、今なお、阪神タイガースの魂が宿り続けている。 「うちは秋には1回戦で小山高校に1-0で負けたチームなんです。強豪校ばっかりです。ここから1戦1戦が勝負です」 昨秋の県大会で1回戦負けしたチームを麦倉監督は、その卓越した理論と情熱をもって、得意分野の投手陣から整備して、春季大会でベスト4に進出できるチームにまで成長させた。 その春の大会で敗れたのは、7連覇を狙う“横綱”作新学院。大きな壁となって立ち塞がるが、人生のたくさんつまった、あの甲子園へ凱旋したときに、「僕のことより、生徒が勝つことが大事」という麦倉監督は、どんな思いを抱くのか。ベスト8を賭けた戦いは、16日の強豪、国学院栃木戦だ。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)