「子どもを産みたくない」が「子ども嫌いの冷たい女」に変換されるのはおかしいのでは? 「子どもが好き」という言葉が持つ好意的イメージの不思議
大人が雑に「子供は素直で純粋でかわいい」という違和感
かなり当たり前のことだが、子供だって人間であり、大人との相性や互いの好き嫌いというものがある。「大人が好き」とは言わないのは、「かかわるうえで合う大人と合わない大人がいる」からだが、子供とかかわるときだって「合う子供と合わない子供がいる」のが本当だろう。 子供のほうだって大人とかかわるときに「この人合わないな」と思うことはあると思う。 私は甥や姪と遊ぶのは好きだが、乱暴だったり言葉遣いが荒かったりする子供は正直苦手だ。怖いと思うし、一緒に何かを楽しめるイメージがない。別の人から見たら「元気でいい」という評価になり、よし相撲でも取るか!なんて楽しくやれるのかもしれないが……。 他にも、知人の子供とかかわったりするときに、何があるというわけではないがなんとなく合わないな、という子供がいたりもする(単に慣れていないというわけではなく、他の初対面の大人とは仲良くやっていることもある)。 おしなべて、自分が子供の頃に仲良くしていたような子供とは合うし、子供の頃に苦手だったような子供は大人になっても苦手なのだと思う。 「そうはいっても、やっぱり子供はみんな素直で純粋でかわいいよ」と言う人もいるが、これも私は疑ってしまう。みんな素直で純粋?本当だろうか。 たとえば私が子供の頃は、たぶんお世辞にも素直とは言えない性格をしていたと思う。 母の「女は愛嬌」との教えに反発してますますむくれていたし、写真を撮るときに「笑って」と言われても、「面白くもないのに笑えるかよ」と思っていた。だから私の幼少期の写真はほとんど笑っていない。 初めて幼稚園に行くとき、他の子はみんな親と離れるのが嫌で泣いていたのに、私は「どうせ夕方に迎えに来るのになぜ泣くんだ、バカみたい」と思ったのをいまだに覚えている。 幼稚園のお昼寝の時間も、「もう赤ちゃんじゃないのになんで昼寝なんか」と思って3年間一度も寝たことがなかった。我ながら「子供らしい」純粋さや素直さがなさすぎる。 たぶん、子供ながらに「子供らしい」純粋で素直なかわいらしさを期待されていることは分かっていて、だからこそ、その通り振る舞うのが嫌だったのだと思う。 「子供はみんな素直で純粋でかわいい」というのは、「子供はそうであるべき」「そうでないと困る」と表裏一体だろう。要は、大人が御し易い振る舞いをしていてほしいのである。 私はその期待に反発したかった。私の何が分かるんだといつも思っていた。そんな気持ちを今でも覚えているから、大人が雑に「子供は素直で純粋でかわいい」「子供が好き」と言ってしまうことに違和感を覚えるのだ。