キングダムの時代を書き残した『史記』が別格な理由は? 司馬遷の革新的な筆致
『史記』という古典の価値
中国の正史といえば、『史記』や後漢時代(25~220年)に編纂された『漢書』から清の時代(1644~1911年)に編纂された『明史』までの「二十五史」を指すのが一般的で、『史記』で採用された「本紀」「世家」「列伝」「書」「表」からなる構成は、「本紀」と「列伝」および天文・地理・礼楽・政刑などを記した「志」の3本立てに変更されながら、紀伝体の形式は踏襲された。 極端に単純化すれば、『史記』以前の歴史書は「本紀」と「表」を足して二で割ったようなもので、司馬遷はそれでは言及できないことが多すぎるとの判断から紀伝体を選び、なおかつ「世家」と「列伝」という2つの枠組みを考案したのだろう。 司馬遷の工夫はこれに留まらず、現在の歴史学の基準で見るなら、明らかに不合格とされる手法で執筆にあたった。その人物を取り上げた理由を端的に示す象徴的なエピソードを多用したのである。 その中には宮廷での上奏もあれば、戦地での献策、さらには一対一の密談や親しい者との雑談もある。公の場で語られたことは記録に残されただろうが、密談や雑談の中身はその場にいた当事者しか知りえないはず。司馬遷はどういうルートでそれらの情報を入手したのか。 一つや二つであれば、当事者の回顧が情報源とも考えられるが、あまりに多いと、何者かの創作ではないかと疑わざるをえない。 これらの事情から、現在の歴史学の世界では、『史記』の記述に絶対的な「信」を置けないとの見方が定着しているが、そのことは『史記』という古典の価値をいささかも貶めるものではない。 史実の探求を必須とする現代歴史学の基準で見るからおかしいだけで、歴史と神話伝説、歴史と説話が不可分の時代の作品であれば、ヘロドトスの『歴史』や日本の『古事記』がそうであるように、何もおかしくはない。 司馬遷の文章が、客観的な事実を淡々と並べたものであれば、「二十五史」の一番手にはなれても、現在まで読み継がれることはなかっただろう。非常に高い文学性、物語性に富んでいるからこそ、『史記』は読みやすく、かつ面白い古典として、時空を超え愛され続けているのである。