「大谷くんの活躍は誇り」日本人初のメジャーリーガー(80)が語る60年前の挑戦と二刀流の未来
突然のメジャー、契約は「試合開始の20分前」
入団から2年後の1964年2月に「野球留学」が決まった。村上氏は20歳だった。 「3月に渡米しました。その年に入団した新人2人(髙橋博士、田中達彦)も一緒だったのですが、羽田空港では見送りが凄かったですよ。ただね、マスコミの注目は新人選手でね、それこそ『期待のルーキー』なんて騒いでいましたよ。一方、2年目の僕は片隅にでもいるような感じだったんです」。 留学先は、SFジャイアンツ傘下の1Aフレズノ。当初、大リーグでは1チームの選手の枠は25人と決まっていたが、渡米からおよそ半年後の8月下旬に、枠が40人に拡大した。 「当然、チームメイトの間では、誰がメジャーに上がれるのか話題になりました。僕も活躍はしてはいましたが、ピッチャーの中にはさらに上の選手がいたので、正直言って自分はないと思っていました。ところが、いきなりメジャー昇格が告げられ、8月31日に急遽、ニューヨークに向かいました。で、翌日の9月1日に球場に入って練習していたら、GMが『この契約書にサインしろ』とやって来た。メジャーでプレーするための契約書を差し出してきたんです」 契約内容は、当時の最低給だった年俸7,500ドル(当時の日本円で270万円)に加え、メジャーへの昇給ボーナス7,500ドルを支払うというものだった。だが、当然ながら契約書は英語だった。 「書かれていることが読めず、その場でサインすることを拒んでいたところ、運よく球場のスタンド席に日本人がいてね、その方に契約の内容を見てもらったんです。すると『これはメジャー選手の契約書で…』と内容を訳してもらって、ようやく理解ができてサインしたんですよ」。 その場にいたファンのお陰でメジャーリーグへの登録が完了したというわけだが、契約書へのサインが「試合開始の20分前だった」というのは驚きだ。
日本人初、アジア人初メジャーリーガーの誕生
その時の対戦相手は、ニューヨーク・メッツだった。8回の裏、SFジャイアンツが4対0で負けていた場面で、急遽、登板を告げられる。場内アナウンスで「マサノリ・ムラカミ」とコールされる中、村上氏はマウンドに向かった。 「ブルペンのドアを開けると、スタンドは4万人の大観衆のどよめきだったんです。さすがに緊張しましたね。で、自分なりに、その緊張感を和らげようと思ったら、『上を向いて歩こう』のメロディーが浮かんできて……自然にハミングしていたんです。この曲は当時、『スキヤキ・ソング』として米国で大ヒットしていていたんですけどね」。 村上氏の初登板は、打者4人に対して無失点(三振×2、ヒット×1、内野ゴロ×1)だった。日本人はもちろん、アジア人初のメジャーリーガーが誕生した瞬間でもあった。 「ただね、その場に日本のマスコミは誰1人もいませんでしたね」 と、村上氏は苦笑いする。 村上氏は、結果的に2シーズン在籍し帰国した。鶴岡監督から「南海に戻ってこい」と告げられたためだというが「(残っていれば)あと5、6年はできたと思う」と言いきる。