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「どこまでが発達障害の症状なの?」ADHD小島慶子さんの戸惑いーー生来の気質か生育環境か

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つらい生い立ちの彼らが手に入れた一億総中流の幸せ

 今、親になってわかったのは、安定した愛情を知らずに育った私の両親は、本当に手探りで育児をしていたのだということです。終戦時に子どもだった彼らは生き延びるのに必死で、焼け野原からの復興とともに忙しく生活を更新し、暮らしはどんどん豊かになり、一億総中流の幸せを手にしました。ただ、新しく整ったファミリーの器の中に何を入れればいいかは、分からなかったのです。  つらい生い立ちの彼らを責めるのは酷ですが、そんな二人の間に生まれた子どもたちにとってもなかなかに過酷な環境だったのだと思います。当時、いかにも当世風の絵になる幸せを手にしていた私たちの家庭は、砂糖菓子の城の中に嵐が吹き荒れているような、未熟な愛の密室でした。家族というのは、そういうことが起きる場所なのです。  そんな時代の商社マンでしたから、父は仕事で家を空けがちでした。私が生まれた当時は39歳、多忙で、やりがいも感じていたでしょう。父の気持ちが想像できるようになったのは、自ら41歳で大黒柱になってからです。それまでは、養われる者の視点でしか父を見ることができませんでした。  密着状態だった母とは対照的に、父との間にはいつも距離があり、支配と非支配のせめぎ合いもありませんでした。父との間にあったのは、緊張です。もっとも、パースにいた頃はうんと幼かったので、父との距離感といっても意識の中に父が登場する頻度が低いという程度のものでした。それでも父が私を肩車して家の廊下を行ったり来たりする「ドンチキチッチ」という遊びが大好きでしたし、しょっちゅうドライブに連れて行ってくれたことはいい思い出です。

期待と緊張の膜越しに会話するような父子

 父が異性であることも心理的な距離を感じる一因だったのかもしれません。よく覚えているのは、パースの家で父と一緒に風呂に入っていたときのことです。欧米式の浅くて細長いバスタブに並んで座って湯に浸かっているとき、父の股間にあるものが目に入りました。黒っぽくてもじゃもじゃしていてよく分からないけれど、何やら棒状のものがある。そこで恐る恐る触れてみました。指が触れた瞬間に手を引っ込め、反射的に鼻に持って行って「くさい」と言ったら、父は笑っていました。実際は何の臭いもしなかったのですが、人の股間は臭いものだと思っていたので、とりあえずそう言ったのです。そのことを父が愉快そうに母に話していたのを覚えています。  当時2歳か3歳だったと思うのですが、それでもこれは禁忌(きんき)であるという意識はありました。反射的に「くさい」と言ったのは、子どもなりの冗談のようなものであり、同時にその行為をそれ以上継続するつもりがなく今後も繰り返すつもりがないと示しておこうという気持ちが働いていました。しばらくは右手の指先に父の臭いがついているような気がして、手を振ったりしていたのを覚えています。  父は基本的には子どもとよく遊んでくれましたし、私を邪険にすることもなく、一緒にいると仲良くしたいと思っているのが伝わってきました。互いに照れや戸惑いがあって、屈託なく信頼し合う関係というよりは、いつも期待と緊張の膜越しに会話するような感じでした。  ただ、父は時々人が変わったように怖い顔をして怒鳴ることがありました。大抵は私の目つきが反抗的だからという理由でした。娘に軽蔑されたり否定されたりすることを極度に恐れて、そのような威圧的な態度に出たのかもしれません。もしかしたらそれはあらゆる人間関係において父が抱えていた不安なのかもしれないとも思います。  歳をとってから父は何度も「こんなに人付き合いが下手な両親から、慶子のような社交的な子どもが生まれたのは不思議でならない」と言っていましたから、父にも母にも、人とうまく関係が結べないもどかしさがあったのだろうと思います。私も決して外向的な性格ではないのですが、仕事柄たいへん社交的に見えるので、両親にしてみたら驚きなのでしょう。

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