タクシー運転手に転職した"脱サラプロゴルファー"。皮膚がん克服をきっかけに"第4の人生"をスタート!
脱サラプロゴルファーとして活躍
「初めてのラウンドはコンペでしたが、103回でした」と言う。「で、次のラウンドは80台でした」 今より随分性能も劣るドライバーで「300ヤードは飛んでいました」。すると、初ラウンドでも一緒だったプロゴルファーに「『プロになれる』『ジャンボより飛んでいるぞ』などと言われて。当初は『お世辞で言ってくれているのかな』と思ったのですが……」。 久古の上達スピードが尋常じゃなかったことは確かだった。しかし、父に「プロゴルファーになりたい」と打ち明けると“勘当”処分と相成った。 久古青年は、レイクウッド総成カントリークラブ(現・PGM総成GC)の練習生となった。研修生ではなく、練習生だ。研修生になるには入会テストがあり、それをクリアするのが新たな目標になったが、1年後、無事に合格を果たす。 「合格がかかったパー4で12叩いたこともありました。OB4回(笑)。その日のスコアはワンバーディ、ワン12ですよ」 研修生として腕を磨き、4年後、プロテストに進む権利を得て合格。同期は立山光広や小山内護、今野康晴、河井博大らだ。1996年、久古青年は30歳になっていた。当時はバブルがはじけた直後で、まだその残り香のある頃。 「それでも試合が少しずつ減ったりして、時代の流れが変わっている感じがしました」 約10年、トーナメントの最前線にいたが、優勝の夢はかなわなかった。個人客へのレッスンもトーナメント参戦と並行して行っていたが「(レイクウッド)総成カントリーで研修生をしていたとき、コースでアルバイトしていた大学生が『週刊ゴルフダイジェスト』の編集者になったそうで電話をくれました。『久古さん、プロテストに受かったそうですね。うちの雑誌でレッスンしてくれませんか』と言われたんです」。 ジュニアゴルファー出身でないどころか、ゴルフを始めたのが26歳。サラリーマンの経験もあることから、久古のレッスンは“普通の”アマチュアゴルファーから「僕たちの気持ちをわかってもらえる」と高い支持を得る。 誰が言い始めたか愛称は“僕たちの久古さん”だ。久古自身、トーナメントの一線から退く際、小さい頃からゴルフをしてきた選手と「感性の違い」を感じたと言う。 ジュニア出身の同伴選手がグラスバンカーに入れた際、久古は「これは難しい」と思ったが、その選手はロブショットでフワッと出し、ベタピン。「58度か60度で出すだけだろうな」と思っていた久古は驚き「今、何度で打ったの?」と聞くと「アプローチウェッジです。何か寄る気がしたから」と、サラッと言われ「これはかなわない」と感じた。だから“感性を持たない普通のゴルファー”の気持ちがよくわかる。 生徒は口コミで増え、レッスンは好調だった。バイクレースをやり、不動産業をやり、プロゴルファーになり。いわゆるプライベートには気が回らないほどだったが、45歳で結婚。その後、二人の息子に恵まれた。「今、小3と5歳ですが、かわいくてかわいくて。甘やかしています(笑)」