落合博満監督の「1点を守り勝つ野球」で白星を引き寄せた長打力。オレ竜“最恐”助っ人・ウッズ【プロ野球回顧録】
米国産、アジアで育った大砲
在籍4年で155本塁打。チームをリーグ優勝と日本一に各1度ずつ導いた実績を考えれば、タイロン・ウッズに「ドラゴンズ史上最強助っ人」の称号を与えても異論はあるまい。 【選手データ】タイロン・ウッズ プロフィール・通算成績 アメリカ生まれだが、アジアで育った大砲である。メジャー経験はなし。高く厚い壁を突き崩せず、韓国に活路を求めた。アジアにやってくればそのパワーは規格外。あっという間に潜在能力を発揮し始め、ウワサを聞きつけた日本球界からもオファーが舞い込んだ。2003年に横浜(現DeNA)入団。当初は“保険”扱いだったが、一気に頭角を現し本塁打王に輝いた。翌年も連続キング。リーグ王者の中日が口説き落とし、05年に移籍した。 就任1年目はほぼ補強を行わず「現有戦力の10パーセント底上げ」を掲げ、本当に優勝したのが落合博満監督だ。そのオレ竜が、2年目にはウッズを強奪に動いたのはなぜか。すでに実績十分だったから、年俸3億円超の2年契約と言われるが、出来高条項などを含めると実態はもっと大型だったはずだ。 「最初の優勝より、連覇ははるかに難しいことなんだ」。落合監督はV2を呼ぶ最強の使者を招いた理由をこう語っている。交流戦がスタートしたシーズンでもあるこの05年は、絶好の開幕ダッシュを果たしながらウッズの暴行&出場停止から大失速し、連覇を逃した。しかし、落合政権下の8年で最強だったと言われる翌06年はウッズの打棒が大爆発した。 47本塁打、144打点はいずれも球団記録を塗り替え、二冠。広くて投手有利のナゴヤドーム(現バンテリンドーム)を本拠地にして以降、球団初の本塁打王でもあった。荒木雅博、井端弘和の一・二番コンビがかき回し、首位打者を獲得した福留孝介が三番に座る。後ろにウッズが控えていることで、相手バッテリーは福留との勝負を選ばざるを得ないのだ。 パワーのある外国人にありがちな、ボール気味の球を強引に振るスタイルではなかった。本塁ベースから大きく離れて立ち、苦手意識のある内角球に対処する。かといって相手が無難に外角球で散らそうとすると、長いリーチでバットが届く。届きさえすれば、ウッズはナゴヤドームでも右翼席に運ぶ力があった。こうした打ち方を覚えたことが、アジアで才能を開花させた理由だろう。