NHKは「吉原の闇」をどこまで描くのか…次の大河の舞台「江戸の風俗街」で働く遊女4800人の知られざる生活
来年のNHK大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎とは、どのような人物なのか。小説家の永井義男さんは「『江戸の出版王』と呼ばれる蔦屋重三郎は、幕府公認の遊郭があった吉原で生まれた。幼少期から吉原遊郭の世界に接していたことが、彼のキャリアに大きな影響を与えた」という――。 【写真】吉原の遊女(明治時代に撮影) ※本稿は、永井義男(監修)『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』(宝島社)の一部を再編集したものです。 ■約4800人の遊女が住む吉原で生まれ育った 吉原遊廓については「江戸の文化の発信地」であるとか、「江戸の流行の源泉」とかさまざまな言われ方があります。しかし、その根本は公許の遊廓、つまり「風俗街」であり、そこで働く遊女は「風俗嬢」であるということです。吉原遊廓の本質はそこにあることを、まずは押さえなくてはいけないと思います。公許の遊廓としてスタートした吉原は、1657(明暦3)年に、現在の日本橋人形町から台東区千束へと移転して、浅草寺の裏手に広がる田圃の中に新吉原が作られました。 時代によって多少の増減はありますが、千束へと移った新吉原の場合、2万坪ほどの敷地に、およそ1万人が居住していたとされます。 1846(弘化3)年の「町役人書上」によれば、男性1439人、女性7339人と総人口は8778人とされます。女性のうち遊女は4834人ですから、まさに女性たち、とりわけ遊女たちの活躍で成り立つ世界でした。 俗に「遊女三千」と言われますが、おおよそ実際の数字と合っているのではないかと思われます。 このおよそ1万人の吉原の住民のひとりとして生まれたのが、蔦屋重三郎でした。蔦重の両親もおそらくは遊女に関わる仕事をしていたはずです。たとえ妓楼(ぎろう)の生まれでなくとも、蔦重は子供の頃からそうした世界に接していたことでしょう。 生粋の吉原っ子であり、吉原のことを知り抜いていた。それが、蔦重の版元としてのキャリアに大きな影響を与えました。 ■大名や豪商が夜な夜な豪遊した「伝説的な時代」 吉原遊廓の歴史を江戸時代で区切るとすれば、およそ250年の歴史をもつと言えます。 最初の40~50年が、今の日本橋人形町に設置された元吉原です。1657(明暦3)年3月に明暦の大火が起こりますが、その後に現在の千束付近に移転し、これが新吉原となります。 まだ江戸市中にあった元吉原の頃が最初の40~50年であり、第1期とすれば、江戸の郊外にあたる千束に移った新吉原が第2期となります。それからおよそ100年の時が経過して、宝暦年間(1751~1764年)の頃に、吉原のシステムが一変します。ここからの100年間を第3期とします。 吉原の全盛のひとつは、やはり第2期の宝暦以前の新吉原であり、それは端的に「太夫(たゆう)」がいた時代でした。太夫とは吉原の最上級の遊女に対する呼称です。太夫時代の吉原遊廓で遊ぶには、客は莫大な資金を要しました。本当に選ばれた者しか、吉原遊廓では遊べない時代です。その分、格式があり、大名や豪商ら夜な夜な豪遊した、伝説的な時代でした。