ポジションはチームを明るく照らす『太陽』(Bリーグ・千葉ジェッツ 大宮宏正)【前編】ハーレム・グローブトロッターズに誘われる!?
ハーレム・グローブトロッターズに誘われる!?
派手なダンクで大学バスケ界を盛り上げた大宮宏正は2006年春、専修大学を卒業した。その年、「ムチャクチャでしたが楽しい経験でしたね」という冒険に出る。 大学3年のときから夏にはアメリカへ渡り、田臥勇太(宇都宮ブレックス)が在籍していたロングビーチ・ジャム(ABA)のトライアウトに参加。それをきっかけに、翌年はラスベガスで行われていたサマーリーグに出場する。そこでの活躍が目に止まり、「大学卒業後にもう一度アメリカに来い」と声をかけてきたのは、ハーレム・グローブトロッターズのスカウトだった。ハーレム・グローブトロッターズとは、ショーアップされたバスケで世界を笑顔にするサーカスのようなチームである。1926年(諸説あり)に創設され、NBAよりも20年ほど歴史が古い。日本でも何度かゲームが行われ、その妙技のトリコになった人も多いことだろう。しかし、その存在を大宮自身は「ほとんど知らなかった」そうだ。だが、惹かれるものがあった。 「ショーバスケの最中にガチバスケが入るのですが、そのときのメンバーになると言われました。サマーリーグで一緒だったレイカーズでもプレーした経験がある選手もその中にいたので、ちゃんとした練習ができると期待していました」 専修大学でのバスケを全うした22歳の大宮は、アメリカの地に帰ってきた。約束の場所へ向かうと、「お前は一体誰だ?」とお互いに戸惑う状況に陥る。「よくある話ですが、担当者が変わったようで、結果的には何もなかったです」というのが真相である。 「知らない土地に一人で行き、『お前は誰だ』と言われ、よく英語も分からない中でしたが良い経験になりました。期待してもらったまわりの方には迷惑をかけましたけど…」 しかし、アメリカでの冒険はこれで終わりではなかった。
「アメリカにさえ行けばなんとかなるだろう」という自信
マイナーリーグABAのチーム練習に参加する機会を得たが、「10時から練習がはじまると聞いて体育館に行けば、みんなが集まってきたのは12時過ぎ。ただシューティングをして終わるようなチームでした」。サマーリーグでは「プレーオフまで4試合足りないからということで、1日3試合をしました」。マイナーリーグではよく聞く話であり、「ムチャクチャでしたが楽しい経験でしたね」という冒頭に紹介した言葉どおり、大宮はプラスに変えた。 本場アメリカにいることで、いろんなチャンスが転がっているものだ。「ミネソタ・ティンバーウルヴスの最初のキャンプに呼ばれるかも」という話が舞い込んできた。「朝4時から準備して待っていたのですが、結局呼んでもらえず…」と今回も実現には至らなかった。アメリカでのラストチャンスはNBDL、今でいうGリーグと同等レベルに当たるリーグのベーカーズフィールド・ジャムのトライアウトを受ける。 「最終選考まで残ったのですが、『レッドシャツ(練習生)でどうだ?』と言われました。でも、さすがに貯金も使い果ててしまい、日本でプレーすることにしました」 結局、どのチームからも正規なオファーを受けることはなかった。 2000年代、アメリカに渡る選手のほとんどがガードプレーヤーだった。その中において、2m近い身長の大宮が海を渡ったことは大きな一歩であり、数々のチャンスがあったことが爪痕を残した証と言える。国内よりも希望があるという思いでアメリカへ渡ったのだろうか? 「何にも考えてなかったんですよ。とにかくジャンプ力と走力、トランジションやファンダメンタルに自信があったので、行けばなんとかなるだろうというのは正直ありました。今でこそ、NBAで活躍する日本人選手が道を切り拓いてくれていますが、当時はまだまだアジア人がダンクしただけで驚かれた時代でした。アメリカでなんとかしたいとは思っていましたが、それだけではダメでしたね」 様々な伝手を得ながら道をかき分けて行ったが、「計画性がなさすぎました」。今のように簡単に情報を得られるような時代でもなく、言葉が通じない環境によるホームシックもあった。 「本当にやりたいかと言われれば、まわりの人たちの期待に応えたいだけだったような気もします。アメリカでプレーしたいという気持ちが、途中からブレてしまいましたね」 帰国した大宮は、2006-07シーズン中の三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)に練習生として加わり、新たにはじめる長い冒険の入り口に立った。 ポジションはチームを明るく照らす『太陽』(後編)『一生ダンクし続けるというこだわり』 へ続く
泉誠一