ポステコグルーの進化に不可欠だった、日本サッカーが果たした役割。「望んでいたのは、一番であること」
監督としての彼の成長において、不可欠な役割
ポステコグルーは冒険を求めて日本に行った。旅立ちはその3年半後。理由はヨーロッパでのチャンスを欲したことだった。 世界の向こう側で監督のポストを探るという決断は、セルティックから就任の打診を受けるずっと前にエージェントに伝えていた。ポステコグルーの監督招聘を検討しながら、結局見送りを決めたビッグクラブは一つや二つではなかったはずだ。ブリスベンやメルボルンでの成功は言うに及ばず、日本でしか実績のない監督にリスクに見合う価値はないと判断したのである。 シティ・フットボール・グループのある幹部の言葉を借りれば、ポステコグルーは“本物のなかの本物”だ。 彼がセルティックで収めた成績とその後のトッテナム監督就任を目にして、招聘を見送ったクラブの会長や最高経営責任者たちは、後悔に苛まれたかもしれない。もっとよく見ていれば、と。そうだとしたら、ポステコグルーの日本における経験の価値は、彼の成功によって再評価を迫られる。 日本での日々は、オーストラリアからヨーロッパへの旅における長めの乗り継ぎ滞在などではなかった。監督としての彼の成長において、不可欠な役割を果たしたのだ。 (本記事は東洋館出版社刊の書籍『アンジェ・ポステコグルー 変革者』から一部転載) <了>
文=ジョン・グリーチャン