「上海ハニー」から17年、ORANGE RANGEがテレビからライブにシフトした理由
肥大化する「ORANGE RANGE」、増え続ける「大人たち」の要求
20代前半にして手に入れたケタ違いの人気――。次々と新曲を作りながら大都市ツアーもこなさなければならない。予算やスタッフの数、寄せられる期待、映画やドラマ、CMなどのタイアップ、気づけばORANGE RANGEに関わるすべてが大きくなりすぎていた。好きなことを自由にやる、そんな姿勢にも変化を求められた。 「タイアップだと、もちろん『こういう曲を作って』と言われます。作品に合わせて『泣ける曲を作って』と言われることもある。もちろんそういった要望も聞きつつ、でも自分たちのやりたいことも通さないといけない。『花』とかは、そういう感じで学びながら生まれた曲です」(RYO)
ひとつひとつのことに向き合いつつも、楽曲作りだけではなく、バンド方針すらも5人だけですべてを決めることは難しくなっていた。 「当時『もっとグローバルに発信したい』と思っていました。そのためにYouTubeで楽曲を公開したかったんですが、今のような時代ではなかったのでなかなか難しかったですね」(YAMATO)
自分たちのことなのに、周りの大人たちがあらゆることを決めていく。しかしその状況を、YAMATOは「僕たちの若さや甘さから生まれた状況でもあった」と振り返る。何もかもが目まぐるしく変わる日々の中で、目の前にあるものを消化することに必死になっていた彼らは、自分たちを見失いかけていた。
原点回帰、タイアップはなくなったけどライブは増えた
デビューから19年。実はORANGE RANGE、どんなに多忙な時期でも“全員で上京”をしたことはない。生まれ育った沖縄を拠点としている。 「自分たちで2010年にレーベルを設立して、最初の3~4年はやっぱり忙しかったので。バンドを代表して東京に住んでいた時期もありました。音楽制作だけじゃなくて、会社というものの状態を整えるのには3年くらいはかかるものだなって思っていたんですけど。それが落ち着いてきて、『あれ?東京にいる必要ある?』ってなってきて戻ってきたんです」(NAOTO) 沖縄県那覇市から車で50分、沖縄市の“コザ地区”。アメリカと沖縄のカルチャーが入り混じり、ライブハウスも多く、沖縄のローカルカルチャーを体感できる。そんな小さな街で5人は育った。商店街の店主たちとは顔なじみで「飲みに行けば知り合いやメンバーにしょっちゅう会いますよ。というかメンバーと飲みに行くことが多いんです」とNAOTOは笑顔で語る。 5人が選んだのは、原点回帰の道だった。2010年7月に、自主レーベル『SUPER ((ECHO)) LABEL』を立ち上げた。曲を作り、ライブをする、シンプルな目的のためだった。大手レコード会社を離れたことにより、メディア露出やタイアップ曲のリリースなどは減ったが、夏は各地の大型フェスにも出演し続け、コンスタントにライブツアーを重ねる活動スタイルを守り続ける道を選んだ。