江戸城の無血開城を実現させた立役者は誰だったのか 江戸を戦火から救った3つのポイント
『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の"城好き"で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。55回目に登場するのは、江戸城です。 【画像】皇居に残る江戸城の面影
徳川家存続を勝海舟に託した
今回は、江戸を戦火から救い、150万人の命が助かったとされる江戸無血開城がどうして可能になったかを、3つのポイントから見ていきましょう。 慶応4(1868)年正月、幕府は鳥羽伏見の戦いで敗れ、官軍が江戸に向かって進んできます。鳥羽伏見の戦いの幕府側の総大将は、前将軍の徳川慶喜でしたが、彼の敵前逃亡で幕府軍は総崩れになります。自ら上野寛永寺で謹慎の身となった慶喜は、徳川家存続を軍事総裁に任命した勝海舟に託しました。今でいうところの「丸投げ」です。
坂本龍馬や西郷隆盛も認める視野の広さ
勝海舟は祖父が金で「武士の位」を買った、元御家人。幼少期から剣術に励み、青年期は蘭学、兵学を学び、当時最高の兵学者だった佐久間象山に師事して妹を嫁がせています。 ペリー来航の際は「開国し、海軍を育てるべき」という意見書を提出して認められ、長崎海軍伝習所教頭になります。その後咸臨丸の艦長としてアメリカに渡るなど、幕臣としては一、二を争う実力者でした。さらに坂本龍馬や西郷隆盛からも、その視野の広さから尊敬されていました。
慶喜は徳川家の存続を嘆願し続けた
さて官軍は、慶喜の切腹など厳しい処分を求める、薩摩の大久保一藏(利通)や西郷隆盛などの強硬派と、松平春嶽、山内容堂といった諸侯および長州の木戸孝允を中心とした寛典派に分かれていました。強硬派の西郷隆盛が東征大総督府の参謀につくや、江戸城総攻撃は3月15日と決定し、勝海舟の周りも慌ただしさを増します。 謹慎中の徳川慶喜は、13代将軍家定の正室・天璋院や、14代将軍・家茂の正室の和宮を通じ、朝廷や新政府に助命と徳川家の存続を嘆願し続けます。女々しいといえば女々しいですが、これが意外や効果があったのです。というのも天璋院は薩摩出身で、西郷隆盛が最も尊敬した島津斉彬の養女でしたし、和宮と東征大総督の有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王は、和宮が家茂に嫁ぐ前に婚約者でしたから、大奥の2人からの慶喜の助命嘆願は、官軍側に心理的な影響を与えたと思います。