江戸城の無血開城を実現させた立役者は誰だったのか 江戸を戦火から救った3つのポイント
上野の西郷隆盛像の建立も勝海舟の尽力
そしていよいよ、勝と西郷の会談が始まります。3月13日は突っ込んだ話は行われず、翌14日、勝は単身薩摩藩蔵屋敷(以前の三菱自動車本社所在地)に乗り込みます。『幕末史』の作家・半藤一利氏によれば、勝が先に入室。下駄履き、洋装の隆盛が遅刻して庭から入ってきます。そして座りながら「総攻撃の中止」を表明します。会議時間の大半は、幕府の武器、軍艦の始末に割かれたといわれています。 「江戸焦土作戦を実行し、それによって外国人に危害が加えられるなら、その時からあなた方の敵は幕府ではなく、私たちだ」というパークスの脅しが効いたのかもしれません。結局、江戸城総攻撃は中止になりました。 なお西南戦争で逆臣となった西郷隆盛は憲法発布に伴う大赦によって「逆賊」の汚名が解かれ、上野に銅像が建てられますが、その像の建立も勝海舟が西郷の名誉回復に尽力し、天皇の裁可を得たから可能になったものでした。 【江戸城】 太田道灌が開いた平山城がもとで、徳川家康によって慶長8(1603)年、天下普請で築城開始。初代、2代、3代と天守が、それぞれの将軍によって作られて拡張し、20基の櫓と5重の天守を誇ったが、明暦3(1657)年、明暦の大火で多くを失った。4代将軍家綱を補佐した保科正之の「街の復興を優先すべし」との英断で天守は再建されないまま。 皇居東御苑の公開時間は9時~16時(閉園時間は最長18時までで季節により変動)で無料。休園は月、金曜日(天皇誕生日以外の「国民の祝日等の休日」は公開。月曜日が休日で公開する場合には、火曜日を休園)。12月28日から翌年1月3日までも休園。 住所:東京都千代田区千代田1-1 【勝海舟】 かつ・かいしゅう。1823~1899年。通称・勝麟太郎。勝安房を名乗り、維新後は勝安芳と称した。両国の41石と裕福でない旗本の家に誕生。剣術に加えて蘭学に打ち込み、ペリー来航の際に提出した人材登用、兵制改革、海防整備などの意見書が認められる。その後、長崎海軍伝習所を設けるなど海軍創設に尽力、日米修好通商条約締結のため咸臨丸の艦長として渡米。日本を俯瞰できる開明的な思想は、坂本龍馬や西郷隆盛など多くの志士に多大な影響を与えた。その功績は数知れないが、最大のものは江戸無血開城であることは万人が認めるところ。維新後は鹿鳴館や日清戦争に批判的な立場をとり、硬骨漢として鳴らす。脳出血で倒れ、「これでおしまい」とつぶやき逝去。 松平定知 (まつだいら・さだとも) 1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。 ※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載 ※トップ画像は、焼失前の正殿。「Webサイト 日本の城写真集」より。