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「暴れん坊球団」で高卒いきなり レギュラーを張った毒島章一という男

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第11回 毒島章一・前編 (第1回から読む>>) ◆昭和にはなかったプロ野球の「美女チア軍団」  平成の時代にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。すでに時代は令和に変わり、昭和は遠い昔となりつつある。しかし、そんな今だからこそ、当時の個性あふれる選手たちを記憶にとどめておきたい。 「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの11人目は、通算1977安打を放ち"ミスターフライヤーズ"と呼ばれた毒島章一(ぶすじま しょういち)さん。こわもての選手ぞろいで恐れられた当時の東映にあって、高卒1年目からいきなり活躍した経緯が飄々(ひょうひょう)と語られた。 * * *  毒島章一さんに会いに行ったのは2012年5月。最初のきっかけは、野球好きで知られた落語家、立川談志師匠に取材したときのことだ。昭和プロ野球の思い出を尋ねていくと選手との交流も語られたのだが、親しく付き合った選手として毒島さんの名前が出てきて興味を持った。  とりわけ印象に残ったのは、毒島さんがプレーした東映フライヤーズ(現・日本ハム)の"伝説"だ。ある日、球団の合宿所=無私寮に泥棒が侵入したところ、選手たちは怯(ひる)まずに捕まえ、よってたかって懲らしめた。泥棒は「お願いですから、警察へ連れてってください!」と叫んで懇願したらしく、それぐらい、東映といえば怖い面々ばかりだった──。  1954年から61年まで、東京・世田谷区の駒澤野球場を本拠地とした東映は、荒っぽいチームゆえに[駒沢の暴れん坊]と称された。当時は大田区鵜の木(うのき)に住み、球場が近くてよく観戦していた談志師匠によれば、試合中の暴力行為で出場停止処分となり「ケンカ八」と呼ばれた山本八郎をはじめ、張本勲、土橋正幸は特に恐ろしい存在だったという。

そんななか、毒島さんは落語好きだったから談志師匠と接点があったそうだが、僕はてっきり、毒島さんも「暴れん坊」だと思い込んでいた。思い込みが払拭されたのは、東映ファンの作家、佐山一郎の一文に触れてからだ。『駒沢に猛者たちがいた。』と題されたコラムで光が当てられていた。 〈「駒澤神話」でとかく見過ごされがちなのが、福本豊(阪急)に次ぐ三塁打106本の記録を持つ毒島章一の存在だろう。左打ちの好打者は性格温厚で、血気盛んな異端児集団の人望を集めた。〉  まったく、「暴れん坊」ではなかった。この記述だけで、毒島さんが入団6年目、23歳の若さで主将を務め、のちに[ミスターフライヤーズ]と呼ばれた由縁が感じ取れる。続いて、積み重ねた記録が紹介される。 〈現役を終わってみれば、実働18年、ベストナイン3回、2056試合に出場し、7148打数、1977安打、122本塁打、688打点、平均打率2割7分7厘。「名球会」入の条件を満たす2千本安打までは、あと23本。オールスター戦にも昭和31年以来18試合に出場し、21打数8安打、2本塁打の打率3割8分1厘。〉  文中の〈あと23本〉が、2012年5月、もうひとつのきっかけになった。というのも、同年4月28日に日本ハムの稲葉篤紀、5月4日にはヤクルトの宮本慎也と、通算2000本安打の記録達成が相次いだ。その一方、ソフトバンクの小久保裕紀は1999安打まで打った後、腰の故障のため5月25日に登録を抹消されたが、いずれ復帰して達成するのは間違いない。  文献資料によれば、毒島さんが〈あと23本〉で断念した要因は右肘の故障だった。ケガなら仕方なかったのか、と思えるが、他の文献によると、じつは右肘は快方に向かっていたらしい。しかし、毒島さんは当時の田宮謙次郎監督から再三コーチ就任を要請され、同監督からの「2000本安打は達成したも同然」という声もあって現役を引退したようなのだ。

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