国木田独歩「源おぢ」 天地間の人間とは何か 【あの名作その時代シリーズ】
「あの名作その時代」は、九州を舞台とした作品、または九州人が書いた著作で、次代に残すべき100冊を選び、著者像や時代背景、今日的な意味を考えながら紹介するシリーズです。西日本新聞で「九州の100冊」(2006~08年)として連載したもので、この記事は07年3月4日付のものです。 ********** 宇宙に流れている旋律。その響きは体の奥深いところで感じとれるものかもしれない。自然と人間の「融化」。大分県佐伯市の街並みが一望できる城山の頂に立ち、心を澄まして、国木田独歩を思うとき、こんなふうに自然と感応していたのではないか、と想像される。 一八九三(明治二十六)年、佐伯の私立学校に教師として赴任してきた独歩は、英国の詩人ワーズワースの「熱心な信者」であった。自然のうちに人間を見いだしたワーズワース。その世界が佐伯にあった。〈豊後の地、山険にして渓流多し。(中略)ここに余にとりて別天地の感ありたり〉。わずか十カ月ほどで終わった佐伯の時代を振り返った回想文「豊後の国佐伯」で、独歩はこう記した。 人生とは何か、と自問するとき、独歩は、その「美妙」な旋律だけに答えを求めなかった。「豊後の国佐伯」では、街頭で見かけた、ある現実について触れている。〈痩(や)せて枯れ木のごとき手に握りて、何とも知れざるものを口に運びつつ行く〉乞食(こじき)である。〈地獄の垣を抜け出でし者かと、傍らの人に語りき〉。独歩は「天地孤独」という言葉を使った後、こう記した。〈余はしばしば『彼は何者』と自ら問はずして止むあたはざりしなり〉。 人間を自然と融化した「自然の児(こ)」としてとらえるなら、人は決して「天地孤独」とはならないであろう。だが、独歩の心は、現実の世界にわだかまり、そこから、抜け出しはしなかった。ワーズワースを踏み出したところに独歩ならではの深みがある、と思う。初めて書いた小説「源おぢ」からにじみ出す哀愁。詩趣に満ちながらも、悲しみを帯びているのである。
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西日本新聞