なぜ日本の音楽アーティストは「パワハラ」「セクハラ」「いじめ」「虐待」といった社会的メッセージの発信が少ないのか?
日本の音楽アーティストに欠けているもの
なぜか日本の音楽アーティストたちはラップに限らず、そういったメッセージを発信する人が少ない。すすんで世の中の問題にコミットしない。これもやはり日本特有な気がする。ここでもまた公の精神に欠けているのだろう。 パブリックに奉仕したいって気持ちが見えない。やっぱり、自由の「自」が自分の「自」だからよくないんじゃないかと思える。または音楽の「楽」が文学の「学」でなく「楽しい」になっていることもまたもう一つの理由かもしれないと邪推したくなるが、これについてはまた別の機会に述べたい。 日本にはびこる自己責任論というものもまさにその延長にあるのだと思う。誰もが自分の自由を追求した結果は自分の責任になるということだが、日本の自己責任論には、失敗した人に共感する姿勢がまったくない。 自分の自由を追求したいという気持ちは誰でも同じなのだから、その結果、誰かが困っていたら、相手の立場になって応援するのが当然ではないだろうか。それぞれの個人に自由が担保されていることが大前提なのに、「自分だったらそんなことしない、やったやつがバカなんだよ」という冷めた考え方をするから自己責任論になる。「自分でやったんだから、自分で責任取れ」「自業自得」と突き放す。 「あいつらは自分の自由を拡大解釈して好き勝手にやりすぎたんだ!」という発想になってしまうのは、心が貧しいと思う。だからセカンドチャンスを与えようという風潮がないのだ。 それか、自分たちはいつも我慢しているという意識があって、その同調圧力に従わない不届き者は村八分にしてもいいという感覚なのか、みんなでよってたかって石をぶつけるようなことをする。 それがエスカレートして、例えば最近のキャンセルカルチャーが過去のプライベートな会話の中での失言をわざわざ発掘し、徹底的にその責任を取らせたがるのも、見ていてあまり気持ちのいいものではない。
人を見るときに一番重要なのは…
最後にこれだけは書いておきたいのが、人にはそれぞれ「価値」があるということだ。たいていの人が、誰かの「価値」というと、その人が今の立場でどんな役に立つのか、何をたくさん持っていて、どれくらいの資産や財産を所有しているか、それを試算して、その人の「価値」を決めている。 しかし人の値打ちとは本来、その人が何も持っていなくても、人のために何ができるかということだ。それこそがその人の価値であるべきだ。お金もない、権力もない、そういう状態でも他人のためにどれだけ誠実に、見返りを求めず尽くすことができるかがその人の本当の価値ではないか。それこそがその人の魅力であるべきだ。 この違いを理解するには、人を見る目を養わなくてはいけない。人を見るときに一番重要なのは、肩書きや財産ではなく、その人が人間としてどれだけ魅力的かということなのに、最近の世の中ではそのことが軽視されている。その違いを知る機会のない人は、正直、可哀想だなと思っている。人の価値とは深いものなのだ。 文/Kダブシャイン ---------- Kダブシャイン(けー だぶしゃいん) 東京都渋谷区出身のラッパー。日本語の歌詞と韻にこだわったラップスタイルが特徴。現在の日本語ラップにおける韻の踏み方を確立したと言われる。その作品は日本、及び日本人としての誇りを訴えかける歌が多く、「児童虐待」「シングルマザー」「麻薬中毒」「国家観」など様々な社会的トピックを扱うMCとして知られている。1995年にキングギドラのリーダーとしてアルバム『空からの力』でデビュー。1997年にアルバム『現在時刻』でソロデビューし、近年は様々なアーティストのプロデュースも手掛けている。 ----------