文化を軽視し文字を嫌った軍事強国スパルタが、ライバル・アテナイの民主政を恐れた意外な理由。
古代ギリシアの歴史の舞台、ポリス(都市国家)として有名なのは、アテナイ(アテネ)とスパルタだ。しかし、アテナイが民主政治や壮麗な神殿建築、ギリシア悲劇などを連想させるのに対して、スパルタといえば「スパルタ教育」……しか思い浮かばない。しかし、アテナイと激しく覇権を争った強国の意外な実像には、歴史の皮肉が――。 【写真】軍事国家スパルタの王
いまは「見栄えのしない田舎町」
「地中海世界の歴史」第3巻『白熱する人間たちの都市』(本村凌二著、講談社選書メチエ)から、この謎多きポリス・スパルタの歴史をたどってみよう。 著者の本村氏は、現在のスパルタを訪れた印象を記している。 〈スパルタは今日訪れても見栄えのしない田舎町にすぎない。これがアテナイと並び称された大強国の都市かと目を疑いたくなる。いくら武勇を重んじ文化を軽んじたとはいえ、アテナイとの落差を考えると、文化遺産の少なさや品質の低さに愕然とする。〉(『白熱する人間たちの都市』p.247-248) 古代スパルタ人にとっては「今の自分たち」が大事であり、文化遺産などという未来の価値観などには思いがいたらなかったらしい。それがスパルタ人の気質だったのだろう。 もっぱら軍事が重んじられたスパルタでは、文芸の素養は軽視され、文武両道を「良きたしなみ」と見なすこともなかった。 あるアテナイ人が「スパルタ人は無学だ」とからかったときには、王位にあったスパルタ人は「おっしゃるとおりだ。われわれだけがあなた方から悪習を学ばなかったですからな」と返したという。 〈文芸には少しも関心を示さなかったスパルタ人だが、優雅さのただようピリリと鋭い言葉を用いることについては、子供たちに教えていたという。スパルタ王の皮肉な応答はいかにも機敏な武人の面目躍如たる姿を思い浮かべさせるのではないだろうか。〉(同書p.99) とにかく、スパルタ人にとって大切なのは言葉ではなく行動だった。そのせいか、スパルタについての文書史料は極端なほど少ないという。スパルタ人の文字嫌いは徹底しており、法律も成文に記されることもなく、墓石にも、わずかな例外を除いて、故人の名前が刻まれることはなかった。その例外とは、戦死した兵士の名前であり、それがスパルタという国家の軍事的性格を物語っている。 そもそもスパルタは、前2千年紀末、ドーリア人の一派がペロポネソス半島南部に侵入し、原ギリシア人であるアカイア人を征服して都市を築いたことに始まる。 ポリスとしてのスパルタには、スパルタ人(市民)、ペリオイコイ(劣格市民)、ヘイロータイ(隷属民)の三つの身分があった。スパルタ人はみずからをホモイオイ(平等者)と称し、その結束が固いことを誇りにしていた。この市民にペリオイコイを加えてラケダイモン人とよばれたが、ペリオイコイには従軍義務はあっても政治参加は認められていなかった。 スパルタの強力な軍事力は、対外戦争だけを目的としていたのではなかった。スパルタ人は先住のギリシア人を征服した人々であり、その地を永久に占領するために、服属した先住民をヘイロータイ(隷属民)として、農奴のように働かせなければならなかった。つまり、占領下のヘイロータイという「内なる敵」を抱えていたのである。この厄介な勢力に対して、常備軍は絶えざる軍事訓練を余儀なくされていたのだ。