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ソール・ライターが人々を惹きつける理由。“見ることの喜び”にあふれた写真

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美術手帖

写真を撮ることはなにかを探りあてるため。ソール・ライターの静かな生き方  僕ははたしてソール・ライターに会っていたのだろうか。彼の写真を見ながらそうふと思った。なぜならライターが住んでいたニューヨークの場所というのがイースト・ヴィレッジの東10丁目であり、実は僕もそこからわずか数ブロックのところに住み同じ界隈を日々歩きまわっていたからで、記憶の片隅にライターによく似たヨレヨレの帽子をかぶった老人を見たことがあったのだ。  カメラを首から下げたあのときの男性は果たしてライターだったのだろうか。でもおそらくあれは違う人物だったのだろうと思うのは、ガラス窓越しに、もしくは隠れるように、または人の後ろから撮るのを好んでいたライターだっただけに、おそらく写真家であることを意識させなかったはずだからだ。もし「カメラマンなのですか?」と尋ねたとしても、目を合わせることもなく「まあそういうところかな」とはぐらかされたかもしれない。世間から注目されることを好まなかったと言われるソール・ライターの写真がなぜいま、こんなにも気になり魅力を感じるのかを時代背景を踏まえながら考えてみたいと思う。  生まれ故郷のピッツバーグからソール・ライターがニューヨークに出てきたのは、そもそも写真家ではなく画家になるためだったことをご存知だろうか。ピッツバーグ出身の有名なアーティストといえばアンディ・ウォーホルというのが反射的に思い浮かぶわけだが、同郷ということもあり、ライターが5歳年上とはいえウォーホルのポートレートを何度か撮っている。  そのウォーホルもまた画家になりたかったものの、最初の10年は商業イラストレーターをやって生計を立てていた。ウォーホルは早くからかなりの成功を収めていたわけだが、いっぽうのライターもちゃんと学んだわけではなかったものの、なんとかありついた仕事を通して自己流で身につけていった写真で注目されるようになっていったのだった。  当時のライターは30代半ばであり、後に「ニューヨーク・スクール」(公式に結成されていたわけでないが、ニューヨークを拠点とした前衛的な画家や詩人、ダンサーやミュージシャンたちの総称)と呼ばれるようになる新しい動きが巻き起こっていた頃だ。その絵画の分野のリーダー格であった抽象表現主義の画家リチャード・プセット=ダートとライターとはかなり親しかったから、そのムーブメントから大きな刺激や影響を受けていたのは容易に想像できる。  いっぽう、写真界においては『アメリカ人』を50年代の終わりに出版することとなるロバート・フランクが、まるで兄のように慕い暗室を共有していたルイス・フォアのストリート写真を高く評価していた。ウィンドウに映りこんだ風景や複数のイメージを重ね合わせ、独特のアングルから盗み見するように撮っていたフォアやフランクのようなエッジの効いた新しい世代の動きに素早く反応する感覚の鋭さがあったのだろう。  その当時のライターを語るうえで触れておかなければならない重要なことは、彼がファッション写真を主な仕事にしていたということだ。50年代に撮りおろし、華々しくページを飾っていた『ハーパーズ・バザー』や『エスクァイア』の仕事を見ると、ページのフォーマットにきっちりと沿うようにライターの写真は縦位置で撮られているのだが、そのときの習慣は多かれ少なかれ彼のスタイルやフレーミングの仕方に影響を及ぼしたのは疑いないと思う。  加えて当時の写真業界の動きに言及するならば、新興派(とは言わなかったが、彼らもまたニューヨーク・スクールに属していたのだ)ともいえるフランクやフォアに加えて、ダイアン・アーバスやリチャード・アヴェドン、アレクセイ・ブロドヴィッチ、ブルース・デイヴィッドソン、ウィリアム・クラインといったソール・ライターと同世代の写真家たちが、前世代の職人的な写真家たちには見られなかった被写体ブレやボケ、荒々しさや躍動感を漲らせながら、よりパーソナルな視点による写真を打ち出し、俄然注目され始めていたということだ。  ライターやアヴェドンらの活動の場であった広告やファッション雑誌はモノクロよりもカラーが好まれ、それに応えるように彼らもコダック社が開発したばかりのコダクロームでの撮影を行っていた。コダクロームは初めてのカラーフィルムであり、鮮明な色と使いやすさで人気を博したが、それが芸術写真となると当時のプリントの技術では退色してしまうという欠点があったため、芸術写真として使うにはまだ到底受け入れられなかったのだ。  コダクロームで撮ったフィルムを現像に出すと、2インチ四方の台紙に挟まれたスライドとして戻ってきたため、日頃からそのフィルムを愛用していたライターも印画紙にプリントせず、スライドプロジェクターを使い居間の壁に投映し恋人や友人たちに見せていたという。それを踏まえるならば、ライターだけがとくに“カラー写真のパイオニア”というわけでもなかったわけだが、縦にカメラを構えてカラーでの撮影はライターが求めていた世界観にうまくフィットしていたということになる。  そんなライターに影響を与えたものとはなんだったのだろうか。浮世絵や光琳や宗達といった画家たち、もしくはボナールやヴュイヤールなどナビ派の画家からの影響は、色彩や構図に関して少なからずあったかもしれない。いっぽうで、映画のスチール写真を集めたイタリアの本からも影響を受けたと以前インタビューで答えていて、そう言われれば連続する映画のストップモーションのような写真が多いのもそのせいだったのかもしれない。でもそれは表面的な見方にしか過ぎず、影響云々を論ずるよりもより重要なのは、じつはライターが撮影をするエリアをかなり限定していたことにあるのではないかと思うのだ。  20代後半のときから亡くなるまで、約60年にわたり同じアパートに住み続けながら、その周囲を日々歩き回っていたライターは、自身の撮影スタイルに関してこんな言葉を残している。「自分でいい作品だと思うものは住んでいるところの近所で撮ったものだ。ストリートはまるでバレエのようなもので、なにが起こるか予測できない」(*1)「私にはとくに哲学というものがない。私はカメラを持ちただ写真を撮っているだけなのだ。自分が見ているものの中のほんのちょっとの部分だけを写真にしているだけであり、でもそれらは無限の可能性の断片でもあるはずなんだ」(*2)と。  ライターは自分の住んでいた場所にこだわり撮り続けたことによって、何も起こらない日常において他からすれば取るに足りない光景のなかに、何か思いがけない物語を発見できることを本能的にわかっていたのかもしれない。自分のことばかりを主張する人間が極めて多い(笑)ニューヨークにおいては、ライターのような控えめで人の影に隠れてしまうような人間にとってなかなか生きづらかったところだったに違いない。しかもライターはチャンスもあり才能もありながらそれを放棄してしまい、世間から注目されたくない、と本気で思っていたことは、彼が残した数々の言葉や写真を見ればなんとなくわかる。  そのように成功や安定した生活といったものからあえて距離を置こうとした純粋さに加えて、日常生活のなかで人が見過ごしてしまうものを掬い上げ、一瞬の儚さのなかに美や価値観を見出すことができた繊細な感性があった。だからこそ、撮られてすでに半世紀以上も経った現代においても人々の心の奥へ響いてくるのだろうし、なにかを探りあてようとレンズを覗いていたソール・ライターの写真はとにかく“見ることの喜び”にあふれているのである。 *1──Interview with Vince Aletti at SVA Theatre, NYC for Dear Dave magazine, May 2013 *2──Interview with Dean Brierly, Photographers Speak, April 2009

文=河内タカ

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