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大敗、内乱、蒙古襲来…古代・中世の日本は「未曽有の危機」にどう立ち向かってきたのか

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PHPオンライン衆知(歴史街道)

天災・戦争・恐慌……今回のコロナ禍以外にも、この国は様々な非常事態に直面してきた。月刊誌『歴史街道』2020年8月号の特集1では「『未曾有の危機』に立ち向かった日本人」と題し、日本人がいかにして困難を乗り越えてきたかに迫っている。 ではそもそも、日本史においてはどのような危機があったのか。特集の中から、河合敦氏による古代史・中世史に関する解説を抜粋して紹介しよう。 【河合敦(歴史研究家)】 昭和40年(1965)、東京都生まれ。第十七回郷土史研究賞優秀賞、第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。現在、多摩大学客員教授。著書に、『復興の日本史』『日本史は逆から学べ』『外国人がみた日本史』『禁断の江戸史』など多数。

大敗、政情不安、内乱…

世界中で猛威をふるう新型コロナウイルスによる感染症は、日本でも医療を逼迫させ、多くの方が命を落としました。 この感染症のたちの悪さは、命をうばうだけでなく、経済を破綻させ、人間の心を荒廃させることです。 まだまだ先の見通せない状況ですが、日本人はこれまで、同じような危機を何度も経験しています。為政者や庶民はどう対応したのか、危機が後世にいかなる影響を与えたのか、そのあたりについて、古代から近現代にいたるまで概観していきましょう。 大きな危機に見舞われたとき、誰もが冷静さを失って動揺しがちです。ただ、その反応には日本人特有のものがある気がします。 とくに対外危機については、島国という地理的な独自性からでしょうか、その特異さが顕著です。白村江の戦いを例に見ていきましょう。 663年、大和政権は朝鮮半島に大軍をおくり、唐と新羅の連合軍と戦って大敗を喫しました。中大兄皇子 (天智天皇)は、島国ゆえ大陸の情報がなかなか入ってこないため、唐・新羅連合軍の上陸に備え、多くの山城や烽火(のろし)をもうけるなどあわてて防衛体制を整え、敵が襲来したら船で撤退できるよう、飛鳥から琵琶湖のほとり(大津)へ強引に宮を移しました。 こうした天智の強権ぶりに、豪族たちの不満は鬱積。結局、唐は攻めてきませんでしたが、天智の死後、後継の大友皇子は、豪族たちに支持された大海人皇子(天武天皇)に滅ぼされました。 ただ、天武の新王朝は、さらなる強権を発動し、豪族を完全に官人化しました。唐のような律令国家への転身は歴史の必然でしたが、まさか豪族たちも、担いでいた天武に骨抜きにされるとは思ってもみなかったでしょう。 このように、未曽有の危機は、時の政権を瓦解させ、時代の流れを加速させることがあるのです。 奈良時代の聖武天皇の治世は、長屋王、藤原四子、橘諸兄、藤原仲麻呂と権力者がコロコロと変わり、政情が不安定なうえ疫病や飢饉、地震や干ばつが頻発しました。 天平7年(735)には、疫病のため九州で多数の人が亡くなり、平城京でもバタバタと死者が出ました。伝染病は人を選びません。実力者の藤原四子も全員死に絶えました。 古代中国には、為政者が良くないと天災が起こり、交替を余儀なくされるという思想があります。それを知る聖武は、「朕の不徳が災厄を招来した。天を仰いで自らを恥じ、恐れおののいている」という詔を発しましたが、それに追い打ちをかけたのが藤原広嗣の乱です。 乱はすぐ制圧されましたが、聖武は平城京を離れ、数年にわたり居所を転々とします。 さらに国分寺という壮麗な寺院を各国に建立し、天平15年(743)には盧舎那大仏の造立を宣言しました。仏教は世を平和にする力があると信じられており、仏にすがろうと考えたのでしょう。 しかしそれは幻想に過ぎず、造仏事業は膨大な出費となり、動員人数も人口の半数近くにのぼりました。記録には残っていませんが、平和になるどころか、多くの人びとを困窮させたのは間違いないでしょう。 平将門の乱(939~40年)も国家の危機でした。次々に国府を落とし、新皇と称して関東の独立をもくろんだからです。しかも同時期に、西国では藤原純友の乱が起こります。 驚いた朝廷は寺社に将門の調伏を命じ、討伐軍を組織しましたが、都の軍事貴族たちは臆して関東への出立をためらいました。 結局、将門を倒したのは、同じ関東の武士である藤原秀郷や平貞盛でした。 以後、朝廷はますます武士を重用し、貴族社会に武士が入り込んでいきます。そして保元・平治の乱にみられるように、武士の力無くして朝廷の政争を解決できなくなります。 結果、武士の平清盛による政権が樹立されました。平将門の乱が武士の台頭を招き、日本の支配者を貴族から武士へ移行させる遠因をつくったといえるのです。

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