水道を張り巡らせたハイテク都市・江戸の水事情 : 『守貞漫稿』(その7)
小林 明
江戸は縦横無尽に水道を張り巡らせたハイテク都市だった。玉川上水・神田上水など、最盛期には6つの水路を整備し、そこから地中に埋めた上水道(水道管)によって府内に水を供給。そして、人々はあちこちに設置された井戸から飲料・生活用水を汲む。暮らしに欠かせなかった井戸と水の仕組みを、『守貞漫稿』から探る。
上水道を地中に築いて井戸につなぐ
画像は、守貞が江戸の町人地を描いたものだ。右下に井戸がある。通りに面した惣菜屋(八百屋)であろう、店頭に大根などの野菜が置いてある。仕入れた野菜を洗うときなどに使った井戸だろう。 長屋が立ち並ぶ地域にも、やはり井戸が描かれている。木戸をくぐったすぐ先に井戸があるのは、庶民の生活インフラとしてなくてはならないものであり、暮らしの中心であったことを物語っている。 守貞は、井戸のある風景だけを描いていたわけではない。その構造まで、詳しく記録に残している。 日ごろ、目にするのは地上に出ている井戸の頭部だが、地中深くまで円筒形の構造物が埋まっている。最深部から出ている竹筒が樋(とい)、つまり上水道(水道管)につながっている。守貞の絵にも「水道ノ樋」の文字がある。井戸と聞くと、地下水をくみ上げているものと思いがちだが、江戸では郊外から上水道を通じて給水された水を井戸に溜めていた。 家康が入府した頃の江戸は、現在の日比谷公園、皇居外苑のあたりまでが日比谷入江と呼ばれた浅瀬で、低地では井戸を掘っても塩分が強く、飲料には適さないものだった。江戸の城下が発展するためには、生活用水の確保が不可欠であり、家康の時代から水道の整備が始まったのだ。 樋には石製と木製があり、幹線道路は主に石製だった。幹線道路の末端や狭い区画には、支線用に木製が使用された。 東京・お茶の水の東京都水道歴史館には発掘された木樋と、井戸最深部の桶が展示されている。守貞が描いた「江戸井」の図とそっくりだ。木樋には、写真のような角形(四角)のほかに、円筒形など数種類あったらしいが、角型が一般的だったようだ。ちなみに、水道歴史館裏の本郷給水所公苑内には、発掘された遺構を移築・復元した石樋も展示されている。 樋の一本の長さは2~3メートルほどで、それをつないで江戸府内の地下に巡らせたというから、大変な工事の果てに完成した水道網だった。 樋を流れる上水は、各所に設置された井戸の最深部に引き込まれて貯まり、貯まった水を庶民が共同で利用した。 井戸水は飲用であると同時に、洗濯・行水(風呂)や、米をといだり、釜炊き用や野菜を冷やすなど、生活用水としても使われた。 江戸後期の百人一首のパロディ本「地口絵手本」(梅亭樵父)には米をとぐ長屋の女房が描かれている。この絵は一人きりだが、井戸はいわば長屋の住人共同の炊事・洗濯場だったため、女房たちが集い、世間話に花を咲かせた。「井戸端会議」の語源はここにある。 上水道は江戸の他、名古屋・仙台・金沢などの都市にもあったが、生まれて初めて浸かる「産湯」に水道水を使うことを、江戸っ子だけはことさら自慢したがった。江戸庶民の見栄っ張りなキャラが垣間見られる。