震災の津波で家族を亡くした少女。家族を思いながら生きた10年とこれから。【#あれから私は】
二十歳の夢は“地域に笑顔”
2011年3月11日。大きな津波が襲い1000人以上の住民が犠牲となった宮城県東松島市(ひがしまつしまし)。大曲浜(おおまがりはま)という海沿いの地区に暮らしていた少女の日常は、あの日、津波に奪われました。7人家族で暮らした家は津波で流されてきた船に押しつぶされ、大切な家族を失いました。津波に奪われたのは、大好きだった両親と祖父。そして、母親のおなかにはもうすぐ生まれるはずだった妹も。震災後の辛い日々を支えてくれたのは、一緒に暮らす祖母と、家族との思い出がたくさん詰まった地域に伝わる獅子舞でした。 震災から10年、当時小学4年生だった少女は20歳になり、今年成人式を迎えました。夢に向かって歩みを進める少女の今を見つめます。
両親に見せることが叶わない振袖姿
震災からまもなく10年となる今年1月10日、東松島市で行われた成人式に花柄の艶やかな振袖で参加した高橋さつきさん(20)。 「ここに生まれてきてなかったら20歳っていう節目にいないし生んでくれたことに両親には感謝しています。」しかし、その晴れ姿を両親に見せることはできません。
忘れることができない母との最後の会話
2011年3月11日。当時小学4年生だったさつきさんは、学校での授業中に大きな揺れに襲われました。ゴゴゴゴッ。大きな地響きが聞こえ、机の下に。激しい揺れで、机ごと壁に押し付けられました。揺れが落ち着き校庭に避難すると、両親が迎えに来ました。母のお腹には1ヶ月後に生まれる予定の妹がいました。母は、「もう戻れないと思うから、赤ちゃんの道具をとってくるね」と言いました。「危ないよ、行かないほうがいいよ」さつきさんは両親を引きとめます。それでも、母は「大丈夫だから」と言い残し、父とともに海沿いの自宅へ。これが、両親との最後の会話になりました。7人家族で暮らした家は、津波で流されてきた船に押しつぶされました。「そのときに引き止めなかったから…実はその時に両親亡くなったんです」。さつきさんはもっと引きとめていれば両親は助かったのではないかと、あの日のことを後悔していると話します。 お墓には生まれるはずだった妹の名前も刻まれています。さつきさんと同じひらがなで「ほのか」と名付ける予定でした。怒ると怖いけど優しかった母の奈美子さんと父の作寿さん。獅子舞が大好きだった祖父の一秀さん。津波は大切な家族を奪っていきました。 震災後は3か月間、避難所で暮らしました。その後、仮設住宅に。中学2年生のとき、市内の災害公営住宅に引っ越しました。震災前から一緒に暮らしてきた祖母・恵美子さんと曽祖母・秀子さんとの3人暮らし。母が亡くなったことをさつきさんに伝えたのは祖母の恵美子さんでした。当時のさつきさんの様子を恵美子さんはこう振り返ります。 「震災から1週間で娘(さつきさんの母)のほうは見つけました。そのときはさつきには何も言わないで黙っていたんです、ずっと。ママのことを見つけたけども亡くなっていたから今から安置、埋葬しにいくんですよって感じで教えたんですけど、そのときは静かに泣いてましたね」 震災から数日後、さつきさんは両親が出てくる夢を見ました。「お父さん助かったんだね」と言うと、その夢の中でお父さんは「お母さんね、死んじゃった」と言っていたといいます。目が覚めると、その日、祖母が遺体安置所に行くと言い、学校で祖母の帰りを待っていました。祖母が先生と話している姿を見て、母の死を確信したそうです。「実は母親は最初は土葬だったんです。そのときもどんな顔すればいいかわかんなくて、かわいそうとしか思えなくて、棺にも入れてもらえなかった。人が入るくらいの袋に包まれただけで土葬されて。自分でもどんな顔すればいいかわかんなかった。」