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引き揚げの記憶を伝える“高校生の語り部”「平和のためにできることは...」66万人がシベリアや満州から引き揚げた京都・舞鶴港

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MBSニュース

終戦から75年、戦争の記憶が風化する中、戦地からの引き揚げの歴史を伝える“17歳の女子高校生”がいます。日本海に面した港町、京都府舞鶴市。この街が背負う歴史とは。

舞鶴引揚記念館で語り部を務める高校生

75年前の敗戦直後から、植民地などに住んでいた約660万人もの日本人は、現地住民などからの報復や襲撃を受けながら祖国を目指すことになります。京都・舞鶴港にはシベリア抑留や中国大陸から、約66万人が13年間にわたり引き揚げました。 港を見下ろす舞鶴引揚記念館には、引き揚げの体験を語る「語り部」が約60人在籍していますが、戦後75年が経った今、戦争を経験した語り部は2人だけです。

そんな中、市内の高校2年生、眞下葵さん(17)が3年前ら「語り部」を務めています。 【館内を説明する眞下さん】 「水筒分かりますか、奥にある。水筒って普通口につけて飲みますよね。マイナス30℃の世界って口につけると離れなくなるんですね。何が起きるかというと、水筒ではなく唇がとれるんです。」(眞下葵さん) 戦後、極寒の旧ソ連などで強制労働をさせられた「シベリア抑留者」から聞き取った記憶です。

「おじいちゃんの語り部としての想いを受け継ぎたい」

眞下さんが語り部になったのは亡くなった大好きな祖父・正さんの影響が大きかったといいます。正さんは多くの引き揚げ者の苦難を直接目にした経験から、舞鶴で語り部の会を立ち上げました。 「引き揚げっていうのはそんなに(知られて)いないと思うし、ここの特徴だと思うので、(祖父は)引き揚げについて、すごく知ってほしかったんだと思います。おじいちゃんの想い、語り部としての想いを受け継ぎたいなと思って。」(眞下葵さん)

「小学校1年生が死ぬことばっかり考えていた」8歳の時に満州から引き揚げてきた82歳の語り部

葵さんはこの日、語り部の“先輩”に話を聞きに行きました。戦争の経験者で14年前から語り部をしている樟康さん(82)。終戦の翌年、8歳の時に満州から引き揚げてきました。 「(記念館に)中国服が入っているでしょう。私たち引き揚げだって言われても疑心暗鬼で、何が起こるかさっぱりわからないままに来たから、もし何かあったらこれを着て中国人のふりして逃げなくちゃと思ってね。」(引き揚げ者 樟康さん) 母親と2人で過ごした敗戦から引き揚げまでの約1年間は苦難の連続でした。

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