この奥には戦車があった…本土決戦に備え築かれた壕 「物言わぬ戦争の証人」保存へ地元が動く
鹿児島県霧島市のJR霧島神宮駅近くに、太平洋戦争末期に築かれた戦車壕(ごう)跡がある。地元住民でつくる大川育英会は、戦争の記憶を後世に残そうと、保存活用に向けて動いている。発起人の後庵博文理事長(73)は「霧島に眠る貴重な戦争遺跡。“もの言わぬ証人”を守りたい」と話している。 【写真】霧島大窪地区に点在する戦車壕跡の位置を地図で確認する
霧島神宮駅のある同市霧島大窪地区には、道路沿いの雑木林の中に大きな戦車壕跡が点在する。駅を起点に半径2キロ圏内に確認できた5カ所のうち、一つの壕は高さと幅が約4メートル、奥行きは約30メートル。内壁はシラスと軽石混じりの地盤がむき出しの状態で、奥の壁にはつるはしで削られた無数の痕跡があった。 1997年に霧島の戦車壕を調査したかごしまの戦跡を探る会の八巻聡さん(48)=南九州市=によると、本土決戦向けに編成された陸軍の独立戦車第6旅団の戦車第37連隊、40連隊が築いたとされる。吹上浜や志布志湾に米軍が上陸する可能性があったため、県土の中間地にあり、列車に載せて戦車を運べる霧島神宮駅周辺に拠点を置かれたという。地元住民の話では、実際に戦車が収容されていたらしい。 八巻さんが調査した当時、確認された戦車壕は16カ所あった。その後、防災対策として進められた土木工事などで多くの壕は埋め立てられたとみられる。
大川育英会は一般財団法人として、保有する山をもとに奨学金を貸し出す事業をしている。戦車壕が掘られた山を借りていた住民が借地権を会に返したため、戦争遺跡として保存活用の道を探った。 今後、原形が残る戦車壕跡の前に案内板を立て、人が出入りできるよう補強工事を実施する計画。2025年が戦後80年を迎えるのに合わせ、霧島神宮駅から戦車壕を巡る散策路を整備する構想も掲げる。後庵理事長は「戦争の記憶の伝承と霧島地域の活性化を図るために有効活用したい」と語っている。
南日本新聞 | 鹿児島