日本一のバルーンアーティストが焼き芋屋の店主に!コロナ禍の収入激減生活から一転、極甘蜜芋に懸けた「第二の人生」への想いとは
マジシャンから一転、37歳でバルーンパフォーマーに
それは、当時の友人の一言から始まった。 「なあ、サーフィンやりたくない?」中山さんも友人もサーフィン経験はゼロだったが「いいね、いいね」と盛り上がり、中華料理店の仕事を辞めて2人で勝浦へと移住。平日は水道工事の仕事をしながら、週末に思う存分波に乗る暮らしがスタートした。 その2年後には、劇団で知り合った友人の「サザンいいよね」の一言で茅ヶ崎へと移住。レストランのアルバイトや、運送会社のドライバーの仕事で生計を立てた。 運送会社で働いている頃、現在の妻と知り合い結婚。ほどなくして「緑を感じながら仕事するのって、いいよね」と造園屋へ転職した。それまでノマドのように住む場所、働く場所を変えてきた中山さんが、ようやく「定職」に就いたのは26歳のときのことだった。 それからしばらくして、中山さんは4人の子宝に恵まれた。子どもが幼稚園に入ると「○○パパさん」と呼ばれることが増えたが、なんだかしっくりこない。 「自分は『パパ』というよりは『父』だろう」と、この頃から「中山ちちです」と自ら名乗るようになった。 ある日、仕事から帰ったところ、幼稚園に通う子どもからこのような話を聞かされた。 「お父さん、今日ね、幼稚園でマジック見たよ!すごかったんだからー!」 はじけんばかりの笑顔で、興奮気味にマジックショーについて語る我が子。その様子を見て、興味本位で高島屋のマジック用品店へ足を運ぶように。自分にもできそうなマジックがあればグッズを買い、密かに練習して家族に披露した。子どもたちの驚き、喜ぶ姿を見るのが、楽しみの一つになっていった。 のちに、中山さんは地元のマジックサークルに入会。地域のイベントなどで、マジックを披露するようになった。あるとき「マジックの勉強になれば」と訪れたイベントで、とあるマジシャンが最後にバルーンアートをプレゼントしているのを目にした。その瞬間、ピンとひらめいた。 「マジックはお客さんにトリックを隠さなきゃいけない。つまり、騙さなきゃいけないでしょう?だから、内心いつもドキドキしていたんですよね(笑)それに、お客さんが驚けば驚くほど『最後に全部種明かししたい……!』という気持ちがずっとあって。バルーンアートなら手の内を見せながらパフォーマンスできるから、そのストレスがなくなるな、と。なにより、お客さんが『マジックみたい』と喜ぶ様子を見て『これだ!』と直感しました」 それからは、仕事の出勤前と帰宅後に、ひたすら練習を重ねた。平日は造園屋の仕事、週末はイベントでマジックやバルーンアートを披露するように。こうして37歳でバルーンアートを始めた中山さん。この後、思いもよらぬ出会いから、日本一のバルーンパフォーマーへと駆け上がっていくことになる。