「スポーツの熱狂」に距離をとっていた私が、それを渇望するようになったわけ
故郷から離れて渇望したもの
卒業後、僕は日本へ渡り、地方の小中学校で英語を教える仕事に就いた。最初の数ヵ月は初めての海外生活に伴う驚きや刺激に満ちていて、地元や大学のことに考えを巡らす暇はなかった。だが環境に少し慣れてくると、目新しさは褪せてしまい、それまで当たり前に感じていた文化や、支えてくれた人たちと、1万キロ離れているという事実を徐々に痛感してきた。いつしか孤独感が膨らみ、それが引き起こした軽度の憂鬱が日常の思考に浸透してきた。15年も経過した今になって振り返ると、あの頃はカルチャーショックで精神的に弱っていたのだろう、で片付けることができるけれど、それは遠い過去のことだからこそ下せる判断で、その状態の真っ只中にいる時は、そんな風に考えてもそれで救われることはなかった。 日本で過ごした2年目の秋、昼間が少しずつ短くなり、冷え込むようになった。また今年の冬も隙間だらけの和室で寒さを凌ぐのかと考えた時、その生活に辿り着くまでの様々な決断を思い出して、自分を疑った。かつて大学の一体感に対して抱いていたアイロニーは消え、かわりに接点を持ちたいという切実な渇望が湧き上がった。 その頃から、インターネットでクレムソンの試合結果をまめに確認するようになった。チームは相変わらず生半可な成果しか挙げていなかった。だが、ちょうどその頃、なぜか学長や理事会がようやく痺れを切らしたらしく、シーズンの閉幕を待たずに突然現職の監督を追い出した。しばらくの間、ちょっとしたドラマが続いた。騒ぐメディア、度重なる記者会見、スポーツ掲示板で次期監督について予想や噂を共有するファン。地球の反対側で不眠症気味になっていて、気を紛らわせるものを探している卒業生にはもってこいの出来事だった。 大学が資金をはたいて他大学の名監督を引き抜くというファンの期待に反して、それまで殆んど無名だった副監督が登用されたが、意外にもまずまずのランキングでそのシーズンを終えた。当時は分からなかったけれど、僕らファンはクレムソンのルネサンスの始まりを目の当たりにしていた。数年後には2回目の全国優勝を果たし、その2年後に3回目も取った。100年間やっていても全国決勝戦に進むことすらできないチームが多いこのスポーツでは、贅沢な時期だった。 僕は日本からこの展開を興味津々で見ていた。日常生活の孤独感は変わらなかったが、チームのことに没頭している間、他の悩みを考えないでいられた。シーズン中、日本時間の午前2時頃から開始する試合をラジオで聴きながら夜更かしをした。チームのランキングが上がってアメリカ全土で注目を集めるようになると、向こうのテレビ放送をリアルタイムで配信する海賊版ストリームもネットに出始めた。秋の深夜の肌寒い和室で、畳の上に置かれたノートパソコンの画面に粗く映った馴染みのキャンパスを眺めていると、山中の小さな町にいることさえ忘れられそうだった。少し前まで自分も座っていた学生席、自分も叫んでいた掛け声。そのキャンパスに実際に住んでいた頃には感じたことのなかった愛校心が芽生えた。 試合の時以外にも、僕の生活でアメフトが占める時間が増えた。スポーツの記事を貪り読んでいたし、ソーシャルメディアで何時間も他のファンと交流した。日本の地方にいる僕は現地で試合を観ることもなければ、他のファンと実際に会うこともなく、参加していたコミュニティーはあくまで仮想的な存在で、それは日常生活から離れた居場所を与えてくれた。キャンパスにいるだけで自然にコミュニティーの一員になっていた在学中には、そんな帰属性を強調してチームカラーの服を着たり毎週欠かさずに試合を観戦したりする人のことを不思議に思っていたが、そこから離れて、なかなか馴染めない、馴染もうと努力してもなぜかうまくいかない環境の中では、ぶれることのないアイデンティティと、それに伴うプライドを与えてくれた母校が、急に魅力的になった。 あくまで一時的なものだった。そのうち日本での生活は落ち着き、僕は別の町に移り、少しずつ日本における居場所を自分なりに築き上げた。生活が変わるにつれて、ファンダムに費やせる時間が減り、遠く離れた母校のことよりも、目の前のことが頭の中を占めるようになった。相変わらず試合結果を確認したり、ときにはハイライトを観たりすることもあるが、昔のようにアメフトのために徹夜して、ストリームを観ながら掲示板にメッセージを書き込むことはない。 でも年に1度ほど、何らかの衝動に駆られ、昔のように試合を観ることがある。深夜の画面に映る選手を観ながら、世界中にちらばっているファンを想像して、自分もそのコミュニティーの一員であることを再確認する。チームへの応援が自ずと僕の喉の奥から出てくる。どこから湧いてきたのか相手のチームに対する激しい敵意が胸に広がる。チームの成功は僕の勝ちになって(何もしていないのに)、チームの失敗は僕の恥になって(何ら関係もないのに)、集団と一体化した僕はしばらくの間思考から開放される。 ファンとはいえ、大学アメフトの多くの問題に目をつぶっているわけではない。アマチュアスポーツであるにもかかわらず、全米のテレビで放送されているため、マーケティングとそれに伴う莫大な資本が表でも裏でも絡んでいる。そして選手たちは鎧に近い防具を着用しなければならないほど、極めて暴力的な競技だ。身体的な暴力だけではない。少しずつ領域を奪い取り、敵をフィールドの端っこへ追い込むというルールでさえ、このスポーツをこよなく愛する国の深層にある何かを表しているように思う。 だがそれでも観てしまうし、応援してしまう。アメフトから得る原始的な快楽を否めない。孤独な思いに溺れていた時期に、このスポーツはプライドとアイデンティティーをくれた。理性的な説明がつかなくても、その感覚を与えてくれるものへの愛着はそう簡単には冷めない。 * 次回は12月20日公開予定です。
グレゴリー ケズナジャット(作家)