中島みゆきから共演を熱望された「宝塚OGの壮絶人生」
1982年に宝塚歌劇団に入団して今年で芸歴40年を迎えた植野葉子(うえの・はこ)さんは7年間在籍した宝塚を退団後、すぐに新しい仕事に恵まれた。1989年に上映された勅使河原宏監督(故人)の映画『利休』で三國連太郎(故人)と共演し、鮮烈な女優デビューも果たした。 【画像】宝塚歌劇団にいた頃の植野葉子さん さらに4年後の1993年、歌手・中島みゆきと巡り合う。中島本人が作詞・作曲・脚本・主演をすべて務める伝説の舞台「夜会」に「一緒に出てくれませんか」と本人からの直接オファーを受けたのだ。95年「夜会Vol.7 2/2(にぶんのに)」以来、再演、再々演に双子役で出演したことをきっかけに、以降、「夜会」の4公演に出演した。誰もが羨む順風満帆のセカンドキャリアのかげで、女性ならでの葛藤も抱えていた。 ◆「あの方はもう、『神』ですから」 植野さんが宝塚歌劇団を退団して4年が経過し、まだ30歳になるかならないかの頃。ミュージック界の大御所とのつながりは突然、訪れた。当時植野さんが出演していた舞台『アマデウス』の公演前に突然、中島みゆきのスタッフから喫茶室に呼ばれた。初めて会う人たちとの面接。そこで、聞いたことがない類のオファーを受けた。 「初日の前で終わる仕事です」 「歌は録ってあるので口パクでお願いします」 「アンダースタディ」という仕事だった。舞台では主役が倒れた時の「代打」として準備するまさに「影武者」の役目。そう、本番には立てないことが決まっている。でも中島の本音は単なる「影武者役」を探していた訳ではなかったという。 「私の(夜会の)舞台がどう見えるか、私自身で見て、それを感じたい」 それまでに映画『利休』など知名度の高い映画、舞台を踏んできた植野さんだが、本番の舞台に立てないことがわかっていても全力投球した。 「(中島さんは)どんな作品でもいかに伝わるか、(お客様に)わかっていただけるか、そのことを常に突き詰めて考えていらっしゃっいました。舞台に立つご自身がどう見えているかを見るために、アンダースタディの役割を一人わざわざ置くような他の演出家の方にお目にかかったことがないので、みゆきさんがやることに非常に興味を持ちました」 初めて会った日のことは今も忘れられない。 稽古を重ね、本番が近づくにつれて「動いた形や仕草が似ている」と『夜会』のスタッフの間でも2人の話題で持ちきりになった。スタッフも中島本人も「私(植野さん)の舞台上での写真をみゆきさんと間違えたことがありました」。中島本人もそんな植野さんに対して「私、すごい人に会っちゃった」と自身のラジオで話した。 「直接、私は聞けなかったんですが、ファンの方からその時のカセットテープをいただき、嬉しかった」(植野さん) アンダースタディをした1993年の「夜会」の千秋楽の日に、植野さんは突然招待された。打ち上げにも出ると、中島本人が近づいてきた。そしてこういわれた。 「2年後、スケジュール空いていますか?」 「えっ?」 「再来年、一緒に出てくれませんか」 思いもかけないオファーだった。「えっ、(スケジュール)空いています!出ます!」ともちろん即答した。中島が「夜会」の舞台を客観的に見るため、植野さんは中島さんの“身代わり”に徹し、そのことが予期せぬ新しい道を開いた。 「みゆきさんは『自分は俳優じゃないから』とこんな私に対して”共演者”“俳優”として常にリスペクトしてくださいました。同じ舞台の隣にあの中島みゆきさんがいるのに、緊張というより演じることに集中できました。むしろ舞台を降りて、コンサートを見に行かせていただいたとき、『あの人の横でやらせていただいた』と感動して涙が止まらなくなるんです。あの方はもう、神ですよ。そして舞台に立つと、弁天様に早代わりっていうイメージです。ぜひまたご一緒したいですね」 ◆3歳の頃から「宝塚に入る!」と宣言 『夜会』Vol.20 リトルトーキョーは2019年2月を最後に開催されていない。植野さんは夜会での再会を望んでいるが、取材でお話を聞いていても「実現できるのではないか」と思わせてしまう雰囲気がある。なぜなら、幼少期から望んできたことをことごとく、形にしてきているからだ。 3歳の頃に宝塚に出会い、母に何度も連れて行ってもらった。6歳からバレエとピアノを始め、「私、必ず宝塚に行くから」と宣言していた。中学3年の3学期から片道3時間45分かかる宝塚の知人宅に下宿し、音楽学校の受験勉強のためにレッスンに通った。 「音程はいいけど、声が出ないから無理やなって、歌の先生(故人)からはあっさり言われた」 しかし努力と思いは嘘をつかない。15歳での一発合格だった。 「運が良かったんだと思います。(宝塚に入りたいという)思いは強かった。同期では私が最年少。〝素朴ちゃん〟と言うあだ名をつけてもらえました」 植野さんは8位の成績で卒業、その後は歌劇団の68期生となり、大地真央、黒木瞳がトップにいた「月組」に配属された。その時の2番手にいて、のちにトップに立つ剣幸とも同じ舞台に何度も立った。 「音楽学校時代はダンスの成績が良かったんですが、この月組で〝私は今、演技をしている〟ことに嬉しさを感じちゃったんですね。ほかの上級生の脇役の方でも素晴らしい方がたくさんいて、演じることに目覚めたと思います。 (大地さんは)とっても華やかで自分に厳しい。真央さんにしかできないことを常に考えてやられていました。私は宝塚にいて月組でよかったと思っていました。それが誇りでしたね」 演じるとは何か。入団当時は男役だった植野さんは途中から娘役に変わり、面白い役が回ってくるようになると、役を研究するために小劇場や歌舞伎にも足繁く通った。「脇でもうれしそうにしているのがいいよ」。声の主は、勅使河原監督。植野さんの母の友人で、見に来てくれたときにもらした感想が励みになった。 「芝居がしたい、それなら、私、外に出なきゃいけない、女優になりたい」と思い始めた。こう思った半年後に宝塚の舞台から降りる決断をする。歌劇団生活は7年。下級生の頃、寒い季節の舞台の時には出番前の上級生の草履をカイロで温めたこともあったが、そんな役回りもうれしかった。 「憧れの上級生のお手伝いをさせていただきながら、学ばせていただけるのです。宝塚にいることに感謝しかなかったですから、地球上の中で一番幸せなのは私だ、本当にそう思っていました(笑)」