「脱炭素社会」実現への確かな道、再エネと原子力は“共存共栄”できる!(後篇)
環境外交の難しさとその舞台裏
事実、ストックホルム会議が終わって間もなくパリで米越のベトナム和平交渉が始まり、戦闘もやや下火になったため、世界の反戦派=反体制派は、反戦から次第に捕鯨問題を含む環境・自然保護に活動目的をシフトして行った。そして、それがさらにオイルショック(74年)後反原発運動へ変質して行ったと見ることができる。 実は、こうした政治的構図、つまり、こちらが油断していると嵌められるパターンは、他の場面でもしばしば見られることだ。それは、当時、世界第二の経済大国として幅を利かせていた日本に対する西欧諸国のジェラシーによる陰湿な「嫌がらせ」だったとも言えるし、日本は何かと「スケープゴート」化されやすく、うっかりしていると「ババ抜き」をさせられる傾向があるようだ。 90年代から徐々に盛り上がった地球温暖化(気候変動)問題の場合もまさに同類であると思う。 一例を挙げれば、1997年のCOP3で京都議定書の交渉が行われた時、温室効果ガス排出量の基準年を90年とし、その水準から日本は6%削減の義務を負ってしまった。わが国の場合、産業界の必死の省エネ努力等によって、90年までに、すでに相当の二酸化炭素排出量削減を実現していたのだ。つまり、濡れた雑巾を絞り切った後だったので、以後さらに温室効果ガスを削減するためには多大なコストを要した。これに対して、90年に東西統一したドイツは、経済的に遅れた東独の実績を基準に出来たので、比較的甘い規制で済んだわけだ。 つまり、基準年の決め方ひとつで、実質的な国際義務が有利にも不利にもなるわけで、舞台裏での外交交渉や駆け引きが激しくなる。油断していると「貧乏くじ」を引かされるのは、ストックホルム会議の捕鯨問題の場合と似ていると思う。 筆者は、だから日本政府は現在COP26を控えて温室効果ガス排出目標をなるべく緩く設定せよと言っているのではない。これまでの「周回遅れ」という酷評を返上して、できるだけ厳しい規制を率先して引き受けるべきだと思うが、決して周囲のムードに踊らされて、結果的に自らの首を締め、後になって不履行を責められるような愚は避けるべきだということだ。現在の交渉担当者には釈迦に説法だろうが、若い政治家やマスコミには特に留意してもらいたいのだ。