「脱炭素社会」実現への確かな道、再エネと原子力は“共存共栄”できる!(後篇)
石油ショックで一気に形勢逆転、原子力推進派に宗旨替え
最初の勤務地はジュネーヴで、4年任期で、張り切って新しい仕事に熱中していた矢先、1973年10月の第4次中東戦争の勃発で、第1次「石油危機」が起こり、世界の形勢が文字通り一変した。ちょうどモーリス・ストロングUNEP事務局長(初代、カナダ出身、故人)に随行してジュネーヴからロンドンへ飛ぶ機内で第一報を得たが、その瞬間、「あ、これで環境問題は終わった」と直感した。
事実、ストックホルム会議で折角高まった世界的な環境ブームは、風船のようにあっという間に萎んでしまった。環境問題は所詮、「衣食足りて礼節を知る」ようなところがあって、平時には持て囃されるが、一旦緩急の時は余裕がなくなり、目前の生活優先で、忘れ去られる運命にある。歓呼の声に送られて勇んで国連に出向した筆者は、二階に上がった直後にまんまと梯子を外されたようなものだった。 その直後世界各国を回り、久しぶりに日本に帰ってきて、目にしたものは石油の供給を断たれて、見る影もなく落ち込んだ祖国の姿であった。銀座からはネオンサインがすっかり消えていた。この時ほど無資源国の悲哀を味わったことはない。ベトナム戦争の「テト攻勢」の時とは違った強烈なショックであった。そして、これが今日まで半世紀にわたって筆者が、普通の外交官稼業から外れて、全く畑違いのエネルギーや原子力問題にかかわる契機となった、いわば原体験である。 こうした次第で、筆者は環境問題と環境保護運動の第一線から撤退して、エネルギー問題、とりわけ「脱石油」のエースとしての原子力推進に宗旨替えをしたわけだ。その後1970年代半ばに外務省に復帰し、初代の原子力課長として日米原子力協定交渉などの大仕事に没頭した。退官後は、一時原子力から離れかけたが、3・11事故で、国内の原子力問題にも深く関わるようになってしまった。途中で原子力から足を洗い戦線離脱するわけにもいかず、現在もその状態が続いている。 その結果当然ながら、昔ベトナム反戦で共闘した内外の友人たちや、環境運動で一緒に汗を流した同志たち(その中には現在の反原発市民運動の元祖的な故人たちが少なからず含まれていた)とは袂を分かってしまったが、顧みて後悔はしていない。方法論は違っても、同じ世界のため、日本のために最善を尽くしたいという、いささか青臭い気持ちにおいてはお互いに共通しているはずで、そうであれば、将来的には理解し合って、再び共闘する可能性もあるのではないかと思っているからである。