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秀吉と家康を魅了した“戦国最強”の武将、立花宗茂の逆転劇

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日経ビジネス

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、真田幸村(信繁)、武田信玄、上杉謙信……。歴史に名を残す英雄たちは、どのような失敗を経験し、そこから何が学べるのか。『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』を刊行した歴史家の加来耕三氏が、独自視点の軽快かつ濃密な歴史物語で、25人の英雄たちの "知られざる失敗の原因" を明らかにし、ビジネスパーソンに役立つ教訓を浮かび上がらせる。 【写真】「多勢に無勢でも勇猛果敢に戦ったことが宗茂の評価を高めた」と語る加来耕三氏  今回取り上げるのは戦国最強とも称えられた猛将、立花宗茂。天下人となった豊臣秀吉が、居並ぶ大名たちを前にして「その剛勇、鎮西一」と激賞した武将だ。戦国ファンの関心が高い宗茂は、どのような武将だったのか。加来耕三氏に話を聞いた。(聞き手は田中淳一郎、山崎良兵) * * * ――立花宗茂(たちばな・むねしげ)といえば、武勇に優れた戦国武将として大変人気が高い人物です。豊後国(現・大分県の大半)の大友宗麟(おおとも・そうりん)の家臣として活躍した後に、豊臣秀吉の直参となり、九州征伐や朝鮮出兵で活躍したものの、関ヶ原の戦いでは、西軍につきました。東軍方の大津城を陥落させるなど活躍したものの、宗茂が参加しなかった本戦では東軍が勝利して、いったんは牢人となります。しかし徳川家康の評価は高く、江戸時代になって大名に返り咲いた稀有(けう)な武将でした。宗茂はどのような武将だったのでしょうか。 加来耕三氏(以下、加来):天下人となった豊臣秀吉が、居並ぶ大名を前に宗茂と初めて対面した際に、「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と激賞した話は有名です。  秀吉の九州征伐において、北上してきた島津勢3万余りを、宗茂はわずか3000の手勢で、博多近郊において迎え撃ち、秀吉の大軍が到着するまで持ちこたえたからです。  宗茂はもともと大友宗麟の家臣でしたが、主君が天正6年(1578年)の耳川の合戦で島津勢に大敗します。大友家の命運が尽きようとする中で、各地で奮戦し、戦闘経験を積み重ねていきました。  その経験を生かして、多勢に無勢の状況下で、島津の大軍を向こうに回して、勇猛果敢に戦い、秀吉の高い評価を得たのです。  その後、宗茂は秀吉の直参(じきさん)となり、肥後(現・熊本県)の一揆の鎮圧に活躍して、さらに評価を高めます。とりわけ朝鮮出兵では、天正20年(1592年)に始まった文禄の役で、明の名将李如松(り・じょしょう)の10万とも称された大軍(実際には4万8000人)を3000余で打ち破ったことで、その勇名をとどろかせることになります。

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