富賀岡八幡宮にある砂町の富士塚は溶岩に覆われ、複数の登山口が【プロハイカー斉藤正史のTOKYO山頂ガイド】
東京23区内、特に山手線の内側はビル街や飲食店街、住宅街ばかり。そう思っている人が多いかもしれません。でも、目を凝らせば東京都心にも「山」はあります。そんな東京の山の世界を、日本で唯一のプロハイカーである斉藤正史さんが案内します。 【写真9枚】登山口(最寄り駅)は、都営新宿線大島駅。大島稲荷神社、仙台堀川親水公園、富賀岡八幡宮など登山道を写真で見る FILE.80は、江東区にある砂町の富士塚です。
第80座目「砂町の富士塚」
◆今回は初の登山口、都営新宿線大島駅です 今回の登山口(最寄り駅)は、都営新宿線大島駅。出発はA2出口からとなります。 大島駅は全く縁の無い駅で、初めて降り立ちました。今回の目的地である砂町の富士塚の最寄り駅は、東京メトロ東西線南砂町駅です。しかも、南砂町駅から砂町の富士塚までは500m程度の距離です。最短距離を行くのは良いのですが、特に書くことがなかったどうしよう…。そこで、南砂町駅に次いで近い大島駅を選んだのでした。次に近いとはいえ結構距離があるので、心して歩かねばなりません。 A2登山口から出発するとすぐに丸八通りに出るので、通りを南に歩いていきます。特に何かあるわけでもない丸八通りを真っすぐ進んでいきます。
街の歴史を感じるスポット
小名木川の手前に、大島稲荷神社が見えてきました。この神社に富士塚はありませんが、僕がHIKERの偉大な先達として敬っている松尾芭蕉の足跡を発見しました。 松尾芭蕉は1692年(元禄5年)50歳の時に、門弟である桐奚(とうけい)宅を訪ねる途中で大島稲荷神社に立ち寄ったそうです。そして「秋に添て行はや末ハ小松川」という句を詠んだと言われています。神社入口左手にはその句碑が残っています。 大島稲荷神社からは小名木川沿いに進んでいきます。すると立派な「塩の道橋」が見えてくるので小名木川をわたります。 小名木川は、江戸初期に開削された人工の川で、江戸時代には、千葉県の行徳から江戸に塩を運ぶルートとして重要な役割を果たしていました。この歴史を踏まえ、景観整備との調和を図る外観として、橋は木を感じさせるデザインとなっています。 また、橋の名称は、近隣の大島南央小学校と第六砂町小学校の5、6年生から募集したそうですが、「小名木川の歴史や、小名木川が果たして来た役割を子供たちが学べたら」ということで「塩の道橋」に決定したそうです。 この橋をわたると、すぐに仙台堀川親水公園の入り口があります。 仙台堀川親水公園は、江東区内を流れている仙台堀川の多く部分を埋め立てて造られた親水公園です。都内最大の規模を持つ親水公園で、西は大横川合流地点、北は小名木川合流地点までで、西の大横川合流地点より先はまた仙台堀川として河川になっています。 残念ながら現在はところどころ工事中で、改修しているエリアもありますが、老若男女問わず多くの人で賑わっています。また、東砂1丁目公園から、城東公園までの水路沿いの道には桜が植えられており、桜の名所としても知られているそうです。これだけの桜並木、桜の季節に見てみたいなと思いつつ、先へ進んでいきます。 ◆いざ目的地の神社&富士塚へ 仙台堀川親水公園を抜けて、イオンスタイル南砂を超えると、今回の目的の地、富賀岡八幡宮はすぐそこです。 ・富賀岡八幡宮 いいつたえによれば749年、藤原鎌足の子孫、藤原豊成が下総に行くことになった時に創建したとされています。もともとは八幡神像が、寛永年間(1624年から1644年までの間)に深川の地に移され勧請されて富岡八幡宮となったとされることから、「元八幡宮」とも呼ばれていたそうです。また、この地は海抜が低い土地だったため、たびたび水害で被災したそうですが、信仰がすたれることはなかったそうです。 享保年間(1716~1735年)には、境内・参道に3万本の桜や松が植えられ、景勝地として賑わい、1945年の東京大空襲では社殿などが消失したものの、戦後は仮殿にて復旧され、1961年8月に社殿が再建されたそうです。 富賀岡八幡宮へは、Google先生の導きもあって裏から入ることになりました。鳥居をくぐると、左側には立派な富士塚が見えてくるのでした。 ・砂町の富士塚 この富士塚は、江戸富士講の流れを汲む「山吉丸す御水講」が中心となって信仰されてきたもの。山吉講は食行身禄の直弟子とされる渋谷道玄坂の地主吉田平左衛門が創始した富士講です。講が結成された詳しい時期などは不明です。 砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面に吉田口を、背面に大宮口を、右側面に須走口を作っています。現在では登れませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道も作られています。右には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると、浅間嶽大日如来碑と対面するようになっているそうです。 塚はもともと30mほど北にあったそうですが、1933年(昭和8年)に水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボック石)で固め、1962年(昭和37年)に現在地に移築されたそうです。 ちょうど、富士塚に到着した時、管理しているご年配の方にお会いしました。この立派な富士塚も経年劣化が激しく、現在は登れなくなってしまっているそうです。管理する人々も高齢化が進み、予算がないので富士塚も改修できないのだとか。残念ながら、いずれ危険な状況になれば、この富士塚も取り壊される日が来るのかもしれないとおっしゃっていました。 都内から富士塚が消えていく原因の一つに、管理者の不在や予算という大きな問題もあるのかもしれません。残すこと、次代に伝えていくことの難しさを改めて感じました。 ちなみに、富士塚の正面に出羽三山の碑がありました。聞いてみると、コロナ前は年に1度、出羽三山へいかれていたそうです。僕は山形に暮らしています。都内で初めて出羽三山信仰に触れ、今回の山行は楽しくも、色々と考えさせられる道のりとなりました。 次回は江東区の清澄庭園の山です。 私が書きました! プロハイカー 斉藤正史 2012年より日本で唯一のプロハイカーとして活動。トレイルカルチャー普及のため、海外のトレイルを歩き、アウトドア媒体を中心に寄稿する傍ら、地元山形にトレイルのコースを作る活動「山形ロングトレイル(YLT)」を行なう。スルーハイク(単年で一気にルートを歩く方法)にこだわり、スルーハイクしたトレイルだけで22.000km(地球半周以上)を超える。最新情報はブログを。
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