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井上光晴「明日 一九四五年八月八日・長崎」 普通の日々が一番尊い【あの名作その時代シリーズ】

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西日本新聞
井上光晴「明日 一九四五年八月八日・長崎」 普通の日々が一番尊い【あの名作その時代シリーズ】

「生まれた赤ちゃんのその後の運命は」と、多くの読者から問い合わせが寄せられた。それに対し井上光晴は「私はただかすかな奇跡を祈るのみだ」とつづっている

 「あの名作その時代」は、九州を舞台とした作品、または九州人が書いた著作で、次代に残すべき100冊を選び、著者像や時代背景、今日的な意味を考えながら紹介するシリーズです。西日本新聞で「九州の100冊」(2006~08年)として連載したもので、この記事は06年5月28日付のものです。 **********  向かいの机では、先輩記者が頭をかきながらパソコンをにらむ。奥の机では、支局長が長崎総局のデスクと明日の紙面づくりについて、電話で話している。後ろの席では、パートの女性が新聞をスクラップしている。  窓の外では、午後の晴れ空と対照的に、喪服の女性がコツコツとヒールの音を響かせて支局の前を通り過ぎた。近くの駐車場では、背広を脱いだ男性が車の鍵穴に鍵を差し込んでいる。  二〇〇六年五月×日午後三時三十七分、私は長崎県佐世保市の西日本新聞社佐世保支局で、この原稿を書き始めた。例えば明日、この風景が消し去られてしまうなんて、私にはうまく想像できない。  原爆を主題とする小説『明日(あした)』には、人が「霧のごとくに消されてしまう」(長崎の証言第五集)姿も、「焼けただれたからだのまま右往左往する人々」(同)も描かれてはいない。あるのは、原爆投下の前日、一九四五年八月八日に、笑ったり泣いたりする人々の姿だ。  「井上は若いころ、酒を飲みながら『こんな普通の日々が壊されんことが一番いい』と言いよった」  戦後、井上光晴が身を寄せた佐世保市で一緒に同人誌を作るなどした力武伊佐夫さん(九一)=同市=は、私の名刺を受け取ると、そう言った。  「原爆に、こんちくしょうと怒るのはたやすいが、その怒りは、原爆が尊い『普通の日々』を奪うからだ。『明日』に限らず、その真理を、井上は追求しとった」。そこまで話すと、力武さんはにかっと笑った。  「日ごろは嘘(うそ)ばっかりつく男じゃったけどね」

本文:2,468文字

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