なぜダメだった…。日本の「消えた天才」(6)まさかのゴルファーに転身…。Jリーグ初期の超天才といえば?
若くして評価され、「天才」と称される選手たちがいる。しかし彼らがそのままスター選手として活躍し続ける保証はない。怪我やプレッシャーに苦しみ、コンディションを落としていく者もいる。今回は大きな期待を背負いながらも才能を発揮しきれなかった日本人選手を紹介する。※成績は『transfermarkt』を参照。
MF:礒貝洋光 生年月日:1969年4月19日 主な在籍クラブ:ガンバ大阪、浦和レッズ Jリーグ創設当初、天才と称されて期待を集めた選手が、礒貝洋光だった。 地元・熊本県で幼少期から天才少年と話題だったという礒貝は、1985年に帝京高等学校に入学した。名門校の背番号10を背負って活躍し、サッカーU-20日本代表としてFIFAワールドユース(現U-20ワールドカップ)アジア予選に出場。高校卒業後は東海大学に進学し、澤登正朗らとともに1年生のときから活躍すると、Jリーグ開幕前年の1992年に大学を中退してガンバ大阪に加入した。 1995シーズンにリーグ戦37試合に出場し13得点を記録するなど、ガンバ大阪の主力として輝いた礒貝は、「ラモス瑠偉の後継者」とも呼ばれ、日本サッカー界の期待を集めた。だが、当時のガンバは上位に食い込むことができず、さらに自身のケガも影響して、モチベーションは下がっていった。 1997年に浦和レッズに加入したが、リーグ戦出場10試合で3得点という平凡な成績に終わり、1998年に29歳の若さで現役を引退した。その後は、プロゴルファーに転身したことでも話題になった。 礒貝は自叙伝『真のプロの姿―プロ選手の覚悟を物語で伝えたい』(ザ・ニュースパイラル出版、2020年)の中で、サッカーを始めて2日目でリフティング70回、3日目で140回を達成したという驚きの事実も明かしており、並外れた才能の持ち主だったことを示すエピソードは枚挙に暇がない。 キャリアに「たられば」はないとしても、プロの舞台で才能に磨きをかけていたら、どこまでたどり着けたのかは気になってしまう。
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