51歳で逝去…王貞治にあこがれて「一本足打法」で通算277本塁打の長距離砲は
94、96年に38本塁打をマーク
ソフトバンク球団会長の王貞治氏が巨人で現役時代に樹立した前人未到の868本塁打。「一本足打法」からスタンドに運ばれる美しい放物線にあこがれ、多くの選手がこの打法に挑戦したが成功したケースは皆無に近い。それほど習得が難しい打法で、同郷の王氏に憧れた台湾人の少年がいた。日本で通算277本塁打をマークした左の長距離砲・大豊泰昭だ。 「王貞治のバッティングができなくなった」―1980年代を彩った名句とは? 大豊は台湾・華興高の時に世界大会で優勝するなど強打者として知られていた。王氏にあこがれて日本球界行きを希望するが、兵役の関係から20歳にならないと出国できないため、卒業後に母校でコーチを2年間務めた。21歳で来日すると、名古屋商科大に進学してリーグ新記録の24本塁打をマーク。日本代表にも2度選出された。ただ、この時はまだ一本足打法でない。卒業後は日本人選手としてNPBに入団するため、中日の球団職員で1年間在籍し、89年に中日に入団。25歳で夢を叶えた。当時の王氏のシーズン最多本塁打記録の55本を目標に掲げ、背番号は「55」に決まった。 新人で14本塁打、2年目に20本塁打、3年目に26本塁打と順調だったが、4年目は11本塁打と伸び悩む。同年オフの秋季キャンプで臨時コーチとして訪れた張本勲に勧められたのが、「一本足打法」だった。真面目な性格の大豊はあこがれの王氏に少しでも近づこうと、並外れた練習量に加え、テレビを見ている時も一本足で立って過ごすなど日常生活から必死の努力を重ねた。
野球の神様は大豊を見ていた。94年に打率.310、38本塁打、107打点で本塁打王、打点王に輝く。96年もタイトル獲得はならなかったが38本塁打をマーク。球界を代表するスラッガーとして名を馳せる。一本足打法へのこだわりはすごかった。成績が下降線をたどり、阪神に移籍2年目の99年。野村克也監督の助言で「すり足打法」にフォーム改造して打率.341、18本塁打の好成績だったが、翌00年に一本足打法に再転向した。最後は古巣の中日に復帰して02年限りで現役引退。14年間のプロ野球人生で1324試合出場、打率.266、277本塁打、722打点と立派な数字で球史に名を刻んだ。