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川上哲治、唯一の退場も「嘘をつく子じゃない」と言われた若者とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1971~81年】

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週刊ベースボールONLINE

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 河埜和正 激戦区の内野で唯一の“聖域”を守った“キャップ”/プロ野球1980年代の名選手

川上監督の激怒

 プロ野球で初めて通算2000安打に到達するなど、“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治は、監督としても金字塔を打ち立てている。この連載でも何度も紹介しているが、9年連続でリーグ優勝、日本一を達成したV9だ。1980年代の巨人で、内野陣の“キャップ”と呼ばれた河埜和正は、その真っ最中、70年に入団した。  愛媛県の出身で、中学で野球部に入ったが、わずか1日で退部。連帯責任と、いわゆるケツバットを食らったためだった。教育の現場では体罰が当たり前だった時代。愛のある体罰もあったという声もあるが、そのほとんどすべてに愛はなく、それでいて愛と情熱を看板に掲げて暴力を振るい、それが指導だと思い込まれていた、なんともヘンな時代だった。野球をやりたいという思いは人質のようなもの。野球を続けたければ暴力を耐え忍ぶしかなかったが、河野は退部した。  もちろん、忍耐力がなかったからでも、野球への思いが弱かったからでもない。バレーボール部に入って県大会で優勝を経験したものの、八幡浜工高で野球を再開。甲子園の出場はなく、ほぼ無名だった少年を、V5を達成した巨人がドラフト6位で指名したのが69年のことだった。「驚きの後、喜びがわきあがってきた」と河埜。1年目はファーム暮らしだったが、須藤豊コーチから徹底的に鍛えられる。守備位置はショートで、武器は抜群の強肩。二軍が練習する多摩川グラウンドでは、須藤コーチが遊撃の後方2メートルほど芝を刈り、守備位置を広げたという。2年目の71年に一軍デビュー。空前絶後の黄金時代を謳歌する巨人で、着実に出場機会を増やしていった。一軍に定着したのはV10を狙う74年だ。その7月9日に事件は起こる。舞台は川崎球場、相手は大洋(現在のDeNA)だった。   大洋のマウンドには巨人キラーの平松政次。鋭く右打者の内角に食い込む“カミソリシュート”は、鋭すぎて死球になることも少なくなかった。このときも平松の投球は河埜の内角へ。ヒジに当たったように見えたが、審判はファウルの判定。当然、川上監督は抗議して、河埜にシャツをまくらせて、当たった箇所を見せたが、審判は「河埜は痛がっていない。当たっていないはずだ」と言い放った。  川上監督は冷静な指揮官だ。見方によれば冷徹、冷酷にさえ思える。キャンプで報道陣をシャットアウトする“哲のカーテン”は象徴的で、賑やかな明るい野球とは一線を画した、徹底的に勝利にこだわる野球を展開していた。そんな川上監督だったが、これには激怒する。

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