じつは歴史研究者からは見向きもされていない幕末の謎、坂本龍馬の「暗殺」をめぐる3つの“考察”
このとき、海援隊と紀州藩の間で裁判が行われましたが、坂本龍馬は万国公法を持ち出して「非は明らかに明光丸にある」と紀州藩に多額の賠償金を求めたのです。 いろは丸は長崎からさまざまな物資を積んで、大坂に向かう途中でした。船の積荷には大量の金塊や最新鋭の銃が積んであったと龍馬と海援隊側は主張しました。 いろは丸と明光丸はそれぞれ衝突の直前、回避行動を取っていました。いろは丸は取舵、つまり左に舵を切りました。一方の明光丸は面舵、つまり右に舵を切ったため、両船とも同じ方向を向いてしまいます。そして、明光丸の船首が、いろは丸の右舷に衝突してしまったのです。
龍馬は「万国公法」に照らし合わせて、明光丸の側に非があると主張しました。しかし、実は当時も現代も、国際法上は前方から船が向かってきた場合には、お互いに面舵(右舵)を取り、衝突を避けるのが大原則となっていました。つまり、この場合、面舵を取った明光丸のほうが正しい回避方法を実行していたわけで、取舵を取ってしまったいろは丸にこそ非があるのです。 そのことに気づいていた龍馬は、それを百も承知で、口から出まかせを言って、紀州藩を言いくるめてしまったのでした。
さらにすごいのが、その請求した賠償金の額です。沈没した船の購入費3万5600両の弁償。そして積荷のミニエー銃400丁に金塊の賠償金もこれに上乗せして、全て合わせて総額8万3000両を、龍馬は紀州藩にふっかけたのでした。 ■「胡散臭さ」も含めた、人間・坂本龍馬の魅力 平成元(1989)年、地元の有志で結成された「鞆を愛する会」が、鞆の浦から15キロメートル沖合の水深27メートルの海底で、沈没したいろは丸を発見しました。その後、京都の水中考古学研究所により、平成17(2005)年までに数回の調査が行われて、さまざまな遺物が見つかっています。
しかし、龍馬が積荷であると主張した銃や金塊のたぐいは一切見つかっていないのです。つまり、龍馬は徹底的にはったりをかまして、自分たちの非を言いくるめるばかりか、多額の賠償金までふっかけてぶんどっていたのです。まさにそれは「当たり屋」のようです。 その後、龍馬は暗殺されるのですが、海援隊の面々は龍馬の暗殺は紀州藩が関与していたのではないかと考えます。いろは丸の裁判を恨んで、紀州藩が龍馬を暗殺したと見なし、紀州藩士・三浦休太郎が逗留していた京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃したのです。