じつは歴史研究者からは見向きもされていない幕末の謎、坂本龍馬の「暗殺」をめぐる3つの“考察”
■暗殺の背後にちらつく「薩摩藩」の影 そもそも大政奉還はいかにしてなされたのか。まず慶応2(1866)年1月、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎を仲立ちにして、薩摩と長州の間で、薩長同盟が結ばれます。その翌年に薩摩藩と土佐藩の間で薩土盟約が、薩摩藩と長州藩と安芸藩の間で薩長芸三藩盟約が結ばれました。 これらの藩は明治維新の原動力となりましたが、しかし、それぞれの主張や思惑、立場は微妙に異なっていました。特に意見の相違があったのは、徳川幕府をどうするかという問題です。
土佐藩は幕府と朝廷を一体化させる公武合体を推進していました。藩主の山内容堂も、15代将軍・徳川慶喜を最後まで擁護していました。安芸藩も諸外国の脅威に危機感を持っており、徳川幕府を仲間に引き入れるべきだと主張しました。 一方、明らかに倒幕派なのは薩摩藩と長州藩でした。幕府との武力衝突を避けたい土佐と安芸は、幕府へ働きかけ、大政奉還を実現させました。徳川幕府が朝廷に政権を返上したのですから、徳川打倒の大義自体がなくなってしまったのです。
これに頑なに反対し納得しなかったのが、薩摩藩でした。特に意外と思われるかもしれませんが、西郷隆盛だったのです。彼は武闘派のなかでも最強硬派であり、あくまでも徳川慶喜に腹を切らせるべきだと、武力による倒幕の姿勢を崩しませんでした。 江戸に兵を進めた西郷隆盛が勝海舟と直接会談を行ったことで、江戸総攻撃は回避され、江戸無血開城となったことはよく知られています。しかし、その直前まで、西郷は断固として軍事行動を進めようとしていたのです。それは大久保利通に宛てた手紙にはっきりと書いてあります。
このように考えると、坂本龍馬の暗殺を実行したのは薩摩藩である可能性も大いにあるのです。もちろん証拠となる史料はなく、あくまでも状況証拠を検証した結果、推理されるものの範疇にとどまります。 ■坂本龍馬「当たり屋」説から生じる紀州藩関与説 状況証拠として考えるならば、最近、私がもしかしたらと思うのが、坂本龍馬「当たり屋」説から導き出される、紀州藩関与説です。 坂本龍馬が日本初の貿易商社である「亀山社中」を結成し、その後、新たな組織として「海援隊」を作ったことはよく知られています。この海援隊が操船した蒸気船・いろは丸が、慶応3(1867)年5月26日、瀬戸内海を航海中に紀州藩の軍艦・明光丸と衝突事故を起こし、鞆の浦付近で沈没した事故が起こりました。