Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

天皇を利用した「藤原氏」の報いに学ぶ「危機管理」の要諦

配信

新潮社 フォーサイト

 新型コロナウイルスをめぐる騒動で、政府の対応に不満が噴出している。マスコミは「対応が遅い」と非難し、野党は政争の具に利用して攻撃している。  たしかに、初めてのことだから、混乱し、もたつく場面がいくつもあった。しかし一方で、法と官僚というふたつの壁が邪魔になっていたことも事実だ。  新型コロナ発生国の人びとを入国拒否しようとしても、法務省は「法的根拠がない」と、強く抵抗したようだ。  出入国管理及び難民認定法第5条第1項第14号には「日本国の利益または公安を害する行為」を阻止するために入国を拒否できる、とある。これは、テロリストを想定していて感染症を含んでいない。だから、政府は拡大解釈をしたのだ。超法規的処置と言える。  つまり、現行法では対処できない事案が発生したわけで、これは立法府(国会)の怠慢と言ってもさしつかえない。国会議員や政治家たちの想像力の欠如でもある。モリカケや「桜を見る会」に固執した野党の責任も大きい。超法規的処置が頻出すれば、法治国家は崩壊する。 ■天皇は権力者だったか  古代においても、「超法規的処置」は政治の混乱を招き、独裁者を生み出している。藤原氏勃興期の常套手段が、まさにこれだった。  藤原氏は「律令制度の不備と隙」や「天皇の力」を悪用して千年の栄華(ほぼひとり勝ち状態)を築き上げた。ちなみに、「律令」の律は刑法で、令は行政法のこと。大宝律令(701)が日本初の律令だ。  そこで今回は、「天皇と律令制度(法律)」について考えておきたい。まず整理しておきたいのは、「天皇(大王)は権力者だったのか」である。  ヤマト建国からあと、原則的に天皇(王・大王)は権力者ではなかった。天皇の命令は絶対だが、多くの場合、天皇の命令は天皇の意志ではなかった。合議機関が設けられていて、彼らが奏上した案件を天皇は追認した。実権を握っていたのは、天皇をとりまく畿内(畿内とは都に近い地域)の豪族たちだった。この畿内勢力がヤマトの王を推戴し、その権威を笠に着て、日本各地の首長や豪族たちを連合体に組み入れていった。  考古学の進展によって、ヤマト建国時の王(大王)の立場も、明らかになってきた。ヤマト政権は寄せ集めで、強く大きな勢力が征服したわけでもなかった。もともとヤマト(奈良県)は鉄の過疎地帯で、出遅れていたのだ。ここに、周辺から人が集まってきて、前方後円墳という新しい埋葬様式が生まれ、これを各地の首長が受け入れ、威信財をヤマトの王からもらい受けるという連合体が生まれた。  すでに連載中述べたように、この時代、王と姻戚関係を結んだ豪族(首長)が権力を握っていた。ヤマトの王は祭司王の性格が強かった。  その後、騎馬民族国家・高句麗が朝鮮半島を南下してきたので、ヤマト政権は遠征軍を送り込んだ。結果、次第に国の意志をまとめる強い王が求められ、5世紀後半にクーデターによって雄略天皇が出現し、中央集権国家への歩みが始まった。  ただし、王家と豪族層との軋轢は激しく、政局は混乱し、政権は疲弊した。  だから6世紀初頭、成長著しい日本海側(北陸)から王を連れてくることになった。これが継体天皇で、ほぼ同時に蘇我氏が台頭し、6世紀後半になると、律令制度(法による支配)の導入が急がれたのだった(蘇我氏が改革派だったことは、もはや通説も認めつつある)。そして、紆余曲折を経て、大宝律令(701)は完成したのである。 ■「人事権」をめぐる攻防  問題は、律令制度の中における天皇の立ち位置だ。中国の律令は皇帝に権力を集中させていたが、日本の場合、これを踏襲したのだろうか。  律令に興味深いふたつの記述がある。「非常の断は、人主(じんしゅ)これを専らにす」、「凡そ官人罪を犯して、勅断(ちょくだん)軽重あらば、みな勅断によりて殿(でん)につけよ」と言う。 「非常の断」とは、要するに超法規的処置で、これができるのは人主=天皇だけで、「勅断=天皇の裁断」があれば、従わなければならないと言っている。天皇は律令の枠を超越した存在なのである。  これだけ読めば、天皇は権力者に見えてくるが、話は単純ではない。  日本の律令制度は、表面上は皇帝を頂点とした中国の独裁制を模倣しているが、天皇の権力行使を束縛する規定が設けられ、さらに、律令整備以前の畿内勢力による合議体制が維持されていた。物部氏、蘇我氏、大伴氏、阿倍氏、藤原氏らに代表される古代豪族が実権を握っていたのだ。彼らは律令の中に伝統的な族制的政治機構の再構築を目論み、政権中枢を畿内勢力で固め、既得権益を世襲できるシステムを構築していく。また、その合議のための組織が太政官(議政官組織)で、政治を動かす最高の機関となった。  ただ、ややこしいことに、天皇に人事権は与えられていた。天皇が5位以上の高級官僚の位を「勅授」するという決まりがあった。人事は権力行使の最たるものだから、ここでも天皇は権力者に見える。  しかし一方で、太政官は5位以上の人事を天皇に要求することが出来たし、天皇の人事を太政官が審議するという決まりもあった。これは太政官の介入であり、実際には天皇に人事の大権をあずけたわけではなかったことが分かる。 ■濫発してはならない「超法規的処置」  原則的に、天皇に権力は渡されていなかった。ただし、律令の建て前は「天皇は律令の制約を受けない。律令を超越しているのが天皇」で、この決まりを悪用する人々が現れた。それが奈良時代の藤原氏である。  中臣(藤原)鎌足の子の藤原不比等は、平城京遷都(710)を断行した段階で、ほぼ実権を掌握していた。ところが、養老4年(720)に藤原不比等が死ぬと、反藤原派の長屋王(天武天皇の孫)が朝堂のトップに躍り出た。  そこで藤原不比等の子の房前(ふささき)は、天皇から内臣(うちつおみ)任命の人事を引き出した。これは律令の規定にない臨時職(令外=りょうげ=の官)で、「天皇の命令と同等の重みを持ったその言葉で、天皇の政務を助け、国家を安定させるように」という言質を天皇からもぎ取っている。もちろん、超法規的処置であり、鶴の一声によって、一介の参議に過ぎなかった房前が、長屋王を追い越してしまった。しかも「天皇と同等」なのだから、房前が律令を超越した権力者になってしまったことを意味した。こんな無茶苦茶な話があるだろうか。  長屋王はそれでも藤原氏に楯突いたから、藤原房前は長屋王一家を滅亡に追い込んだ。  禁じ手の欠点は、政敵も同じ手を使ってくることで、藤原氏は奈良時代の後半、あろうことか、王家と対立し、超法規的手段によって追い詰められていく。皇族いじめのつけが回ってきたのだ。  聖武天皇と娘の称徳(孝謙)天皇は、藤原仲麻呂(恵美押勝)と主導権争いを演じた。称徳天皇に至っては恵美押勝を追い落としたあと、寵愛する怪僧・道鏡を王に立てようとしたし、高い位の「カバネ(姓)」を身分の低い者に濫発し、身分秩序を破壊しようとした。独身女帝のご乱心と、評判は悪いが、藤原独裁に対する天皇家の反乱であろう。  ただし、聖武も称徳も、藤原不比等の血を引いていると反論されそうだ。しかし、ふたりは長屋王と同じで反藤原派・天武天皇の末裔でもある。  いずれにせよ、天皇の力を悪用して(禁じ手を使って)他者を圧倒すれば、いずれ痛いしっぺ返しを受けるのだ。「天皇の力を利用する」のは超法規的処置であり、律令を無視した行為だった。  決まりごとをたびたび破れば、やはり歪みが生まれてくる。  これは、現代にも通じる歴史の教訓であろう。「超法規的処置」を濫発してはならない。普段から社会の変化に応じて、適切な法改正をくり返すべきだろう。今日本が持ちこたえているのはいくつもの好運が重なっているからで、執行猶予を天から授けられているに過ぎない。超法規的処置を執らずに済むように、次の危機に対応できる危機管理体制の構築を求めたい。

関裕二

【関連記事】