ヤクルト青木宣親「100点満点」のキャリアに幕 メジャー帰りは“別人”に? 故障知らずだったワケは
NPB通算1956本、MLB通算774本。NPBのみの選手も含め、日本選手歴代5位となる日米通算2730安打の記録を残し、希代のヒットメーカーが42歳でバットを置いた。 【写真】青木の引退で「号泣」した選手といえばこの人 ヤクルトの青木宣親にとって最後の舞台となったのは、10月2日の広島戦。満員札止め、2万9504人の大観衆が詰めかけた本拠地・神宮球場は、試合前からエモーショナルな空気に包まれていた。球団初の試みとして、選手全員が青木の背番号「23」のユニフォームで登場。プレーボール前の円陣では、声出しを務めた主砲の村上宗隆が途中で声を詰まらせて泣き出し、青木自身も始球式を務めた長男と抱き合うと、何度も涙をぬぐった。 9月13日の引退発表後、初めてのスタメンはかつての定位置であった「1番・中堅」。涙で球がよく見えなかったという第1打席はショートゴロに倒れるも、2回の第2打席では逆方向に青木らしいヒットを放つ。6回の第4打席は広島の3番手、九里亜蓮のストレートを痛烈に引っ張るライト線への二塁打。これが日米通算21年の現役生活最後の安打となった──。 数々の栄光に彩られた青木のプロ野球人生も、最初から華々しかったわけではない。ドラフト4巡目でヤクルトに入団して1年目の2004年は、イースタン・リーグで打率.372、出塁率.436で二冠獲得も、一軍で打ったヒットは3本だけ。一気にスターへの階段を駆け上がるのは翌2005年。稲葉篤紀(現日本ハム二軍監督)のFA移籍で空いた外野のレギュラーに収まると、1995年のイチロー(当時オリックス)に次いでNPB史上2人目のシーズン200安打を達成し、打率.344で最多安打と首位打者、新人王にも輝く。 2006年に2年連続の最多安打と初の盗塁王、2007年は2度目の首位打者に初の最高出塁率、2009年は2度目の最高出塁率。2010年に「ミスタースワローズの象徴」とも言うべき背番号1を受け継ぐと、NPBの日本選手では初となる2度目のシーズン200安打を成し遂げる。若松勉元監督が現役時代の1977年に樹立した球団記録を塗り替える打率.3584で、3度目の首位打者も手にした。